『川畑さんと杉作さんと桝田さんと』 桝田道也

その日

電話がかかってきたのは
二十二時と二十三時の
あいだだった。

2005 年のことだ。電話の主は友人マンガ家の杉作さんだった。
「あんまりこんな時間に電話するような人じゃないんだけどな…」
と思いながら応対すると、少し暗いトーンで切り出した。

「あのさ…驚かないで聞いてくれる?川畑さんがさ…死んじゃったんだって」

杉作さんはやっていい冗談と悪い冗談の区別のつく人である。しかも深夜になろうという時間。真実であることを疑う理由はなかった。

「し……死因は……?」
当然の疑問をそのままたずねた。数ヶ月前、『S60チルドレン』の終了が決まってた頃に会ったときは、何事もなく元気な様子だった。

「俺も聞いたばかりでよく知らないんだけど、肺だか胃だかでガンかなにか、とにかくそういう重い病気で、気付いたときには手遅れだったんだって」

正直に言うと、これを聞いたとき、少しだけ安堵したのを覚えている。友人が死んでいるのに安堵も何もないもんだが、自殺でなくて良かった……と、そのときは思ったのだ。

死んだと聞いて真っ先に考えたのが、連載終了を苦にしての自殺か、新連載の企画で編集サイドと揉めての自殺の可能性だった。

まだ若かったから、純粋に思いつめるということはありそうだと考えたのだ。

「それでさ、明日、告別式だそうだから、とりあえずオレは飛行機で鹿児島に行くことにしたんだけど、桝田さんはどうする?」

答えは決まっていた。 

本稿は十回忌を機に、川畑聡一郎先生に関する記憶を洗いざらい書き記すものである。十回忌を機に……と書いたが、年忌法要で定められてるのは七回忌や十三回忌だ。おまけに十回忌とはつまり没後九年だ。キリがいいわけでもなんでもない。

まあ、かたいことは言いっこなしで許してほしい。故人の死を利用してアクセス稼ぎしてるように思われたくなくて今まで黙っていたが、記憶が薄れてしまう前にウェブに刻まなくてはと思い直したのだ。

したがって、彼とした会話や関係者の話などを、だらだら書いていくだけである。物語性も脈絡もなく、ひたすら長くて長いので、ご覚悟いただいきたい。

また、私と川畑さんと杉作さんの三人は会って飲んでいたけれど、片手で数えられる回数の、たった1年半の付き合いだった。貴重な同業者の友人ということで意気投合した親友だとは思っていたけど、大親友と呼べるほど気の置けない間柄ではなかった。正直に告白しておく。

まずは、川畑さんと杉作さんと私の関係、馴れ初めから解説する必要があるだろう。

川畑さんと杉作さんの関係は簡単だ。杉作さんが『イモウトヨ』で青木雄二賞を受賞した第7回MANGA OPENで、川畑さんは『DOG DAYS』で佳作を受賞しているのだ(※『S60チルドレン』で川畑さんが青木雄二賞を受賞したのは第8回)。

受賞記念パーティーで、たまたま近くにいたという理由で二人が会話し、
「今度、飲みに行きましょう」
という社交辞令を交したというだけの話。

杉作さんが素晴らしいのは、社交辞令で終わらさなかった所であるが、それは後述する。

私と杉作さんのつながりの説明は、ちょっとややこしい。出会いは『21世紀のコミック作家の著作権を考える会』の総会だった。たぶん第三回の総会(新人マンガ家だったので否も応もなく参加させられた)。

総会が終わったあと、ちょっとお茶でもしましょうと私と担当編集と高梨みどり先生とで喫茶店で雑談していた。そこへ杉作さんがやって来たのだ。

何年もあとになって知ったのだけど、杉作さんは高梨先生と面識があったようで、それで挨拶にやってきたのだった(杉作さんのお兄さんと高梨みどり先生がかつて同じ雑誌で描いてたのかな?とにかく、そんな感じの理由で、その節はどうも的に挨拶に来たわけだ)

ただ挨拶だけってのもなんだし……という流れで私も杉作さんに自己紹介してしばし歓談し、
「こんど飲みに行きましょう」
という社交辞令を交したのである。

その場に私がいたのは、たまたま、高梨先生と私の担当が同じ人だったからだ。 杉作さんが来たのは、たまたま高梨先生と杉作さんのお兄さんが集英社で描いていたからだ。

縁というのは不思議なものだ。ともあれ、我々を引き合わせてくれた担当さんと高梨先生には頭が上がらない(なお、この担当さんはのちに『S60チルドレン』の担当もした)。

さて、点が線で結ばれた。偉大なる杉作先生は社交辞令を社交辞令で終わらさず、私と川畑さんに、三人で飲みましょうと電話したのである。

これも何年かあとになって知ったことだ。私は杉作さんと川畑さんは、すでに飲み仲間であり、そこへ呼ばれたのだと思っていたのだけど、実はプライベートで会うのは三人ともこのときが初めてだったらしい。

なんでも日記に書いておくもので、すっかり忘れていたけれども、会ったのは 2004 年の3月13日だった。ホワイトデー・イブだ(関係ない)。『S60チルドレン』第一巻の出版記念ということで、杉作さんがセッティングしてくれたのだった。

待ち合わせ駅は錦糸町駅。選んだ居酒屋は『東方見聞録』。この、どこにでもあるチェーンの居酒屋こそ、三人の関係が知人から友人にクラスチェンジした場所だった。…私はすっかり忘れていたけども。

杉作さんが、たしか錦糸町だったと主張し、実際に足を運んでようやく私も思い出した次第。

そのとき、どんな話をしたかはさすがに覚えていない。ただ、その後も何回か飲み会をした中で覚えたことは、川畑さんは芋焼酎のお湯割りに梅干しを入れたものが好きだったということ。

その梅干しを箸でグズグズに潰して飲むのが好きだと言っていた。川畑さんが亡くなってから年に一度、故人を偲んで同じものを(あれば)注文している。が、実を言うと私はあんまり好みじゃなかったりする。なんかお酒じゃなくスープみたいだから……

どんな話をしたかはさすがに覚えていない、と書いたが、日記によれば私は川畑さんの
「ジャイアンにはジャイアンの良さがある」
という主張に感銘を受けたらしい。

映画版の話ではない。通常時の、乱暴者のジャイアンこそ彼の尊ぶべき個性という話だったようだ。

考察するのは本稿の主旨ではないから深く掘り下げないが、『S60~』の大山照の描かれ方を見れば言わんとしていることはなんとなくわかる。

私は当時の日記に次のように記している。
清濁も善悪も青春/老醜もふくめて、まずこの世界を肯定。カッコイイ。逆セカイ系?違うか。

三人の関係が明らかになったところで、告別式の日の話に戻ろう。


告別式の日

訃報を知ったあと、気が動転して、軽率にもネットに情報を流していいかの確認もとらず、ブログに訃報を書いてしまった。

当時はモアイ(モーニング・アフタヌーン・イブニングの合同サイト)も無かったし、MOL(モーニング・オンライン)も終了して久しかった。もちろんツイッターもなかった。

2ch に匿名の情報として噂が流れるよりは、私が自分のサイトに書いたほうがいいだろうと思ってしまったのだ。 書いたことで誰かに迷惑がかかったということはなかった(と思う)が、やはり軽率に過ぎたと思っている。

そのあと、朝イチで羽田に行くために、寝床についた。なかなか眠れなかった。当然のように、実感がわかなかった。

余命いくばくもないとわかった時点で、なぜ、言ってくれなかったのか。

もちろん、言われたところで、どうすることもできない。
「絶対に忘れない」
と、ありきたりの言葉でなぐさめるのが関の山だったろう。同情されたくなかったのだろうか。そんなことを考えながら眠った。

翌朝、羽田で杉作さんと合流。

機上で、ポツポツと事情を聞いた(伝聞の伝聞であるから、以下、間違っている部分もあるかもしれない)。

川畑さんは『S60チルドレン』連載終了が決まったころ、体調の悪さを感じ帰省したそうだ。連載終了ということでゆっくり故郷で充電するつもりもあったのだろう。病院に行ったら、ガンが判明し、手遅れだったのだという。

実は私は、その後もくわしいことを聞きそびれ、いまだに肺ガンだったのか咽頭ガンだったのかそれ以外のガンだったのかを知らずにいる。

病気のことは本人の希望で家族と彼女さん以外にはしばらく伏せられた。担当編集氏が知ったのは余命1~2ヶ月となった頃だったそうだ。 このころ、地元の特に親しい友人達にも伝えられたと聞いた。

杉作さんや私には
「余計な心配をかけたくない」
から、亡くなるまで伝えないよう、担当編集氏にことづけていたそうだ。

「バカヤロウ、余計な気をつかいやがって……」
である。この件に関しては苦笑しつつ、まったく納得していない。 あの世で再会したら、まず小一時間、問い詰める案件だ。

飛行機の中で杉作さんがポツリと言った。
「こんな理由で鹿児島に来たくなかったよ……。はじめての鹿児島、はじめての九州が、こんな……」
私は九州出身で鹿児島県にも住んでた時期があるが、こんな理由で来たくなかったのは同感だ。

「桝田さんはさー、霊とかあの世とか信じる?」

難しい質問。私は神とかあの世の存在については信じてはないけれど、存在すると認めているからだ。

しかし、自分の宗教観を説明するのは非常にめんどくさかった。 杉作さんの宗派(もしくは無宗教かどうか)も知らなかったので、変なことを言って気まずくなるのも嫌だった(なお、今も知らない。プライベートには立ち入らない派)

「それが必要なときには、それはあると思ってます」
と、そう答えたと記憶している。

そして、土田世紀先生の『雲出づるところ』の話をした。科学的合理主義者が“いのちと人の死”について湧き上がる気持ちに納得のいく回答を得ようとしたら、こうなるのでないか。そういう物語だ。私は土田世紀先生の見い出した“小さな救い”に感銘を受けたものだ。

その土田世紀先生も 2012 年に亡くなった。以来、私は空に浮かぶ雲を見て川畑さんや土田先生やその他あまたの故人に思いを馳せている。

脱線が過ぎた。話を元に戻そう。

先に現地入りしていたイブニング編集長(当時)の梶原さん、担当編集氏と合流したのは鹿児島空港だったろうか。それとも葬祭場だったろうか。葬祭場へはバスだったろうか、タクシーだったろうか。記憶が定かではない。

飛行機の中で杉作さんから聞いた説明を担当編集氏からもう一度聞いた。

葬式は、まあ、葬式だった。棺の中の川畑さんは業者の手で上手に整えられ、少しやつれている以外は眠っているように見えた。 読経を聞き、焼香を上げ、僧侶の話を聞き、弔辞を聞き、花を添え故人に最後の別れを告げて、涙ぐむ。

何千年もかけて人類が築き上げてきた、このお別れイベントはよく出来たもので、 実感のわかなかった故人の死が、一連のプログラムを終えるうちに実感と変化していった。

もう、私の知る川畑さんはアクティブなプロジェクトではなくなった。本人によるメジャーアップデートは永遠に来なくなったのだ。

弔辞を読んだのは竹馬の友とのことだった。『S60チルドレン』だと、どのキャラだろう。玉木だろうか。

棺には 2ch のログをプリントアウトしたものが入れられていた。泣いた。以下は私の友人とのメールのやりとりから

(桝田)> 棺に入れられた2chのログを確認しました。
(桝田)> 入れたのがどの人かは見逃しましたが。

>「Cさん」ですね。地元のご友人でしょうか。

>スレ全体を眺めても大した叩きもなく愛されてる感が漂うスレでしたね。
>確か川畑さんはネットやコンピウタにあまり詳しくない方だと記憶してたので出力して棺へ、は名案だと思ってました。

私はスレを見ていなかったけれども、ログのプリントアウトという形でS60スレの住人も告別式に間に合ったのだから、私の軽率な書き込みも少しは許されるだろう。

川畑さんの弟さんは、短髪でしっかりした好青年で、マンガの中の兄と弟とは逆な感じでちょっとにやけてしまった。(川畑さんは生前、わりとボサボサの髪型だった。しっかりしていたかどうかは、飲み会以外で会ってないので、シラフの部分を見る機会が少なくてよくわからない)。

弟さんがいたことで、
「よかった、行方不明になった弟はいなかったんだね」
と思った。

きわめてプライベートなことなので、『Lost Summer』で描かれた行方不明になった弟の話がどこまで実話に基づいているのか、気が引けて質問したことはなかったからだ。

故人が荼毘にふされているあいだ、梶原さん、担当編集氏、杉作さん、私で故人の思い出について立ち話をした(以下、会話文では敬称略で失礼します)。

梶原「(『S60~』は)設定や出だしのプロットは自分の体験を元にしたマンガなんだけど、物語はそうとうオリジナルなんだよね。ネームの初稿と最終稿じゃ、まったく話がちがってることも少なくなかった」

担当「そうですね。連載の後半、それで(大幅なネーム変更で時間を食って)落ちる寸前の回もありましたけど」
桝田「その回のとき、いよいよのときはアシスタントしてくれないかと頼まれました(実際は間に合った)」

梶原「だけど、どんなに話が変わっても、彼のオリジナリティはゆるがないんだよね」
杉作「他にいないですよね。こんな作品が描けるひと」
担当「得難い人材でした……」

ご家族にもお話を伺った。私たちの最初の飲み会が川畑さんは特にうれしかったらしい。東京に出て、はじめて同業者(仲間)と都心で遊んだ。先輩に夜の東京に連れてってもらった……と、嬉しそうに実家に電話したのだという。

単に三人の住居の中間地点だった錦糸町の、どこにでもあるチェーン店の居酒屋で飲んだだけで「夜の東京」は大げさだと思う。が、思い出に特別なものは要らないのだろう。自分にとって必要な人がそこにいれば、それがボーナスなのだ。

余談ながら住まいはたしか中野のあたり。中央線のすぐそばのアパートで騒音がすごいが
「慣れたし、もともとうるさくても平気な方」
だと言っていた。

「マンガに出てきた子供部屋、あれがもう、ファミコンの位置から机の場所までぜんぶ、聡一郎の部屋そのまんまで……。あんな感じでみんな集まってファミコンしてたんですよ」
と語ったのは故人のお姉さまだったか(従姉妹かもしれない)。

桝田「無頼犬テイルは単行本にならないんですか?」
担当「出したいんですけどね…。テイルとデビュー前の作品なんやかんや入れたら 150P 以上あるはずなんで、なんとか単行本の体裁にはなるんです」

担当「ただ、そんなに売れると思えないし……正直、出せるかどうかは難しいと思います」
これを受けて、そんな事情は知らぬフリして自分のブログに次のように書いた。

100~150ページくらいになるはず。これ、なんとか単行本としての体裁が保てるページ数だと思うんですよね。『川畑聡一郎 短編集』出してくれませんか>イブニング編集部、と思う次第なのです。

その他、OHP月極アンケート『単行本化してほしい作品』に項目を追加したりもした。

こうしたささやかな行動がどれほど効をなしたかさっぱりわからないけど、出版不況で大手でさえ売れぬマンガは単行本化されない中、『ALL WORKS』は刊行された。

編集者や営業の心意気が会社を動かしたのだ。捨てたもんじゃねーぜ 21世紀。私はイブニング編集部に心の中で(ついでにブログで2行ほど)喝采した。

告別式のあと、帰路に何を考えたかは、まるで覚えていない。どうやって東京に帰ったかも覚えてないくらいだ(飛行機にちがいないはずなんだが、まったく記憶がない。杉作さんら3人と別れたのは確かなんだが)。緊張の糸が途切れ、脱力していたのだろう。

これも自分のブログの過去ログで判明。その日の鹿児島発東京行きはすべて満席だったため、杉作さん・梶原さん・担当さんの三人は鹿児島に一泊。

私は宮崎の実家に泊まってSNA(現ソラシド・エア)で東京に戻る方が安上がりだったので、そうしたのだった。

ちょうどそのころ私はガテン系のバイトをやっていた。日記にはこう記されていた。 バイト中、作業に没頭しているあいだは、〝そのこと〟を考えずにいられる。 帰宅してからは、〝そのこと〟が頭から離れない。

一日中、合う人ごとに〝そのこと〟を訊ねられる担当氏の辛さは察するに余りある。 とあった。

イブニングには1号(12月13日発売号)にて今回の件を発表する事になりました。 こっち戻ってきて色々な人に川畑さんの事をお伝えしておりますが、 本当にショックで残念だ、という反応が非常に多く返ってきていて、 伝えたこちらもいたたまれないという状況下におります。(当時のメールから)

告別式の日の話(とその後日談)はここまでだ。次からは、私の知りえた故人の趣味や嗜好、ひととなり、作品に関することについて。


ゲームやアニメの嗜好

まず、川畑さんの趣味嗜好とはまったく関係ないが、おぼえてることをひとつ。川畑さんはネットはあまりやらない人だった。

PCとインターネット回線は持っていて、2ch の『S60~』のスレも
「ときどきは見てる」
とは言っていたけれども、ネットに入り浸ってる風ではなかった。

さて、おぼえていることとは、そのパソコンのメーカーの名前に関する話。

川畑「最近パソコンの調子が悪いんですよ」
桝田「どこのパソコンですか?」
川畑「えー?なんかドイツ語っぽいメーカーっす」
桝田「ちょwwwドイツっぽい???あったかな?そんなメーカー……」

川畑「ロゴがアルファベット2文字で」
桝田「…ああ、ヒューレット・パッカード?」
川畑「すごい!なんでわかるんすか !? 」
桝田「アルファベット2文字って他にないですし…。ドイツ語っぽいかなあ」

杉作「ああ、ドイツ語っぽいねー」
桝田「えーっ !? Σ (゚Д゚ ;)」

2014 年のいま、調べてみたらヒューレットはノルマン人にルーツを持つ姓らしい(パッカードはわからなかった)。ノルマン人と言えば北部ゲルマン人の一派なので、まあ、ドイツっぽいと言えなくもないのかもしれない。

その理屈を進めるとヨーロッパ北半分の苗字は全部ドイツ語っぽくなってしまうが。 まあ、なんか面白かったので覚えていたというだけの話である。

三人での飲み会ではもっぱら仕事の愚痴や世間話やPCメーカーがドイツ語っぽいかどうかという話をしたが、 杉作さんがゲームをほとんどやらない人なので、私と川畑さんが長電話したときは、ゲームの話が多かった。

川畑さんの最愛のゲームは『忍者龍剣伝』(FC)だ。葬式では故人の友人が棺にFCのROMを入れて火葬されてたように思う。が、これは「そうであってほしい」と私の脳が後から作った捏造記憶かもしれない。

私はそれ(最愛のゲームは『忍者龍剣伝』)を聞いたとき、『忍者龍剣伝』と言えばアーケード版しか知らなかった。検索してもらえればわかるが、FC版とアーケード版はまったくの別物だ。

アーケード版『忍者龍剣伝』は奇ゲー、馬鹿ゲー、(ゲーム性は)微妙ゲーで有名な作品であって、私は
「あ……そうなんだ……(深く触れるまい)」
という反応をしてしまった。悪いことをした。

初代 XBOX ユーザーだった。理由はもちろん、『忍者龍剣伝』の続編である『NINJA GAIDEN』がプレイできるのは、2004 年の当時 XBOX だけだったからだ。

彼の感想は
「まあまあっす。不満がないわけじゃないけど、シリーズのファンとして納得できる 3D 化でした」
とのこと。

携帯ゲーム機(当時の主流は GBA と NDS)には、まったく興味がないようだった。
「あんな小さい画面でゲームして、何が面白いんすか?」
と言っていた。

「超デカイ画面で超すごいグラフィックの超自由度の高いゲームがしたいんす。それができるなら邪魔とか騒音とか高価とか、ささいな問題じゃないっすか?」
が持論だった(当時、XBOX はデカさ・騒音・値段の高さが不評だった)。

ちょうどそのころ、ネットのゲームブログ界隈では“ゲームの本質はグラフィックじゃない”という論に賛同する人が相次いでいた。 私も賛同していたので、川畑さんの意見には後頭部をガツンと殴られた気がした。急に自分が視野狭窄な気がして恥ずかしくなった。

もちろん、“ゲームの本質はグラフィックじゃない”は正しい。真だ。 だが、だからといって、すべてのユーザーが“本質”を重視してゲームを選ばなくてはならないのか?そんなわけはない。

物語を理由にゲームがやりたい人、ゲーム音楽が理由な人、グラフィックが理由な人、世界観が理由な人、萌えられるかどうか… etc,etc。ユーザーは各自の求めるものを重視してゲームを選ぶ権利がある。

ゲームという文化は、もうとっくに、それだけの豊かな土壌を持った文化に成長していたのだ。そのことを川畑さんに気付かせてもらった。

「僕は『忍者龍剣伝』の続編が出るなら、どんな高価なハードだって買いますよ!」
と川畑さん。力強い。コーエーテクモは川畑さんの死を惜しむように。

川畑「自由度の高いアクションゲームがやりたいんすよー。箱庭ゲームが」
桝田「箱庭?箱庭ゲーってシムシティみたいなゲームのことでしょ」
川畑「そうなんですか?オレ、3D空間でいろいろできるゲームを箱庭ゲーって呼んでたっす」

当時、オープンワールドという言葉はまだ普及してなかった。検索するとオープンワールドなゲームを箱庭と言う人々が当時いたようだ。ちなみに川畑さんから GTA の話が出たことはなかった。プレイしてなかったのだろう。

桝田「『ジェット・セット・ラジオ』みたいな?」
川畑「そうっす!あれいいっすよ!オススメっすよ!」

桝田「なんでもできるっていうと『パワーストーン』とか」
川畑「あ、桝田さん『パワーストーン』知ってますか!そうっす、ああいう感じで、もっとフィールドが広くて、ガーッと飛んでなんでもできて……そういうのがやりたいんすよ」

3D空間で……ていうところが重要っぽかったので、『スパイクアウト』(SEGA)を勧めてみたが、ちょっと求めているものと違うようだった。

思うに“なんでもできる”の指す意味は“超人的な移動・破壊能力”のことであって、“(現実世界では法に触れることが)なんでもできる” GTA は、オープンワールドであっても、おそらく彼の求めるゲームではなかっただろうと思う。

そんな川畑さんだったが、システム以上に重視していたのは(前述の通り)グラフィックと世界観だった。

「『デビル・メイ・クライ2』買ったんすよ。ゲームとしてはイマイチかな?と思うんですけど、こういうキャラとか世界観が好きなんすよねー。この世界観で自由度が高くてガーッと飛べて何でも壊せて……(以下略)」

「『パワーストーン』のシステムはいいんですけどねー。キャラがあんまし……」

「格ゲーっすか。SNK派っす。桝田さんは?カプコン派?あー、やっぱし(笑) 自分は格ゲーのシステムとかバランスはそんなに重要じゃなくて、キャラや世界観が格好いいかどうかが大事なんで」

いちばん好きな格ゲーは『KOF』シリーズと言っていた。八神庵が好きだと。もしくは主人公チームを使用。

徹頭徹尾、主人公もしくは格好いいキャラを選ぶ人だった。ストⅡではリュウ・ケン、ガイル。飢狼ならクラウザー、ギース、ボガード兄弟。ストⅢではアレックス、リュウ・ケン、レミー。ただし対人戦はあまり好まず、もっぱらCPU戦だと言っていた。

格ゲーと言えば、まずイロモノ・キワモノキャラを選ぶ私とはまったく逆だった。私はダルシムであり、ライデンであり、キムチームであり、ネクロだった。

残念なことに、私は川畑さんと格ゲーで(他のゲームでも)対戦することはなかった。ゲーム話をしただけの仲だ。

ああ、そうそう。川畑さんはドリキャス・ユーザーでもあった。ドラクエ・FFなど大作RPGをやってたかどうかは知らない。テトリス・ぷよぷよなどパズルはやってなさそうだった。レースゲーはどうかな。わからない。

『S60チルドレン』で出てきた『ダウンタウン熱血物語』シリーズは好きとか嫌いとかいう次元のゲームではなくじゃなく、 川畑さんの世代の基礎教養という感じだった。

私の世代における『マリオブラザーズ』(スーパーの付かないやつ)や、後の世代にとっての『ボンバーマン(PCE)』『ストⅡ(SFC)』『マリオカート』『スマブラ』と同等の、好きとか嫌いとかじゃなく(直撃世代なら)やってて当然のみんなで遊べるゲームの枠だ。

『S60チルドレン』では二頭身キャラのマンガを描いていた川畑さんだったけど、ゲームの嗜好としては子供向けな雰囲気のゲームは歯牙にもかけなかった。

川畑「ゼルダのトワプリのグラフィックいいですよねー。GC 持ってないけど、ちょっとやりたいんですよねー」
桝田「『風のタクト』良いっすよ」
川畑「ブフッ グホホ……サーセンwwww」

こんな感じ。『ジェット・セット・ラジオ』がOKなんだから、トゥーン・レンダリングがだめなんじゃなくて、“子供向けなものはノーセンキュー”という感じだった。もし生きていたら、『Splatoon』をどう思っただろうか気になる。

ゲームの話はこれくらい。じゃあ次はアニメとマンガの話だ。

川畑さんはエヴァに直撃された世代、直撃されたひとりだった。

私はといえば、それほど感銘を受けなかったので断片的にしか見ていなかった。そのため、電話であまりエヴァ話に花を咲かせてあげられなかったのが心残りだ。

「“アンノ”はお二人とも僕にとって神です。あれは神様夫婦です!」
と川畑さん。安野モヨコ先生や岡崎京子先生の作品も好きだと言っていた。彼女さんの影響だろうか。

彼女さんと言えば、
「『S60チルドレン』で光子の話を描くといやがるんですよね~」
と言っていた。半自伝とあれば小学生の話とはいえ、心中穏やかならざるものがあったのだろう。

桝田「光子は実在するんですか?」
川畑「あれは今まで好きになった女の子全員の合成です。キメラです」
とのこと。

川畑さんとのアニメ話で忘れられないのは、次の話だ。

川畑「桝田さんなら知ってますかねー。子供のころに見たハズなんですけど……SFで宇宙で孫悟空が戦うアニメ」
桝田「ああ、『SF西遊記スタージンガー』?」
川畑「(興奮して)本当ですか !? ありますか !? そういうアニメが !?」

桝田「(とまどいつつ)え、ええ。ありますよ。川畑さんが小さい頃でしょ。僕が小学生のころ。宇宙で西遊記つったらたぶんスタージンガーです」
川畑「マジッすか !? 実在するんですね !? 」

桝田「スターザンSじゃないんでしょ。あれは西遊記じゃないけどSFで主人公は猿っぽい」
川畑「ああ、スターザンSは覚えてます。ちがいます。スターザンSじゃないです」

川畑「そうかー。実在するんだー。いや、あのですね、これが同級生に言ってもだれも覚えてなくて、最終的にボクが嘘つき呼ばわりされてしまって……ほんとーに、ほんとーに、あるんですね?」

桝田「ほんとーに、ほんとーにあります(笑)。僕にウソつくメリットなにもないじゃないですか。というか、ここまで即座にでまかせは作れませんよ(笑)」

この件で川畑さんはひどく感心していた。あのとき、川畑さんの中で私はアニメについてはなんでも知ってるアニメ博士になっていたんじゃなかろうか。単に『スタージンガー』放映時に私が小学生で、細かいことまでいちばんよく覚える年頃だったというだけなのだけど。

実は、アニメ・マンガの話はそれほどしなかった。私がアニメを見なくなって久しかったからだ。そのうえ、マンガ家同士というものは、あんまりマンガ作品の話をしないものだ。作家や編集部のゴシップ話はするけれども。

しかし、川畑さんは杉作さんや私と知り合えたことで、
「マンガやアニメの濃い話ができてうれしいっす。東京に来てよかった」
と言っていた。

そうだ、電話したのが第8回手塚治虫文化賞マンガ大賞の発表直後だったとき、『ヘルタースケルター』が受賞しましたねと言ったら
「おっそ!いつ連載してたマンガだと……」
と驚いてたっけな。

今となってはあとの祭りだが、こんなことになるんなら、もっとマンガやアニメの話をすれば良かった。 エヴァも見るんだった。流行に流されない自分の性格に後悔する日が来るとは思いもしなかった。

こんなことになるとわかっていたら。


デビュー前後のこと、作品のこと。

川畑さんのデビュー以前のことについては、あまりよく知らない。過去を根掘り葉掘り聞き出せるような関係ではなかった。だから、知りえたのは基本的には本人が自らしゃべったことである。

鹿児島のデザイン専門学校を卒業した後、就職のため上京したのか、マンガ家になるため上京したのかも私は知らない。前述の通り、地元では濃いアニメ・マンガの話ができないという不満があったようだ。

持ち込み先としてのモーニング編集部が何番目だったのかも聞いていない。本人の志向としては、どうやら異世界バトル物が描きたいマンガだったフシがある(参考:『ALL WORKS』収録のスケッチ)。想像に過ぎないが、やはりジャンプ・サンデーへの持ち込み経験はあったのじゃなかろうか。

三人で飲んだとき、よく、
「本当は少年誌行きたい。バトル物やりたい」
と言っていた。

いずれにせよ、デビュー前の川畑さんに担当編集がついた編集部はふたつだった。ひとつはモーニングであり、もうひとつはチャンピオン編集部だった(週刊か月刊かヤングチャンピオンかは言わなかったし、私も聞かなかった)。

結果的にチャンピオン系の雑誌に川畑さんのマンガが載ることはなかった。残念なことだ。

川畑さんは、専門学校卒業後、持ち込みを始めるまで本格的にマンガの勉強をしたことはなかったらしい。

だから、川畑さんにマンガのイロハを教えたのは、ひとりはのちのイブニング初代編集長の梶原さんだと言っていた。もう一人はその、私は名前も知らない秋田書店の編集者だとのことだった。

ただ、『無頼犬テイル』の担当をなされていたのは現モーニング編集長の島田氏だと数年前に知った。ツイッターで聞いてみたところ、新人賞から担当しており、『S60チルドレン』の担当でもあったとリプライがあった。

だから、以下の話は私は梶原さんのつもりで聞いていたけど、川畑さんは島田さんのつもりで話していた部分も混ざっているかもしれない。

「そのときの僕は、もうまさにスポンジというくらい、どんどん吸収したんですよ!」
と、顔を輝かせながら川畑さんは言った。

川畑さんが自分を大きく見せようとする人間だったかどうか、判断できるほど深い付き合いではなかったけれど、その言葉に誇張はなく、感じた通りのことを言っているように思えた。

でも、『S60~』を読むと、本人をモデルにした晶は多少、ええかっこしいの小学生だ。

『S60~』の一巻が出た直後くらいだったか。一巻には川畑さんのデビュー作も収録されていたので
「描き慣れてくると、初期の(今よりは稚拙な)絵を見られるのって、恥ずかしいですよね」
と同意を求めたことがある。

すると川畑さんは、言ってる意味がわからないというような不思議そうな顔で
「そんなことないですけど」
と返事をした。

過去の自分の未熟な絵が恥ずかしいという気持ちは全マンガ家に共通すると思っていたので、非常に驚いた。

作品を読む限り、体面を気にするという感覚を理解できないわけでもなさそうだ。私の言葉が足らなくてうまく伝わらなかったのか、とっさに演技したのか、いまとなってはもうわからない。

そういうのを恥ずかしいと思うこと自体が恥ずかしいのだ、という域に達していたのかな?とさえ思う。ちょうど私が原稿用紙を B4 から A4 に変えたころの話をしよう。

画材屋で売ってるマンガ用原稿用紙、A4 のやつにはでっかく“同人誌用”と書いてある。自分はプロなのに同人誌用と書かれてるものを買うのは気持ちとして、なんかちょっぴり嫌だ……と、そう、電話で言った。そしたらだ。

「ぶほっ……ぐふふ、なんすかそれ~。ぐほほほほ……」
と大笑いされたのである(このときは、内心ムッとした)。

もちろん、自意識過剰を認識していたからこそ自虐的に話したわけであるが、自分で振った話にも関わらず
「なにもそこまで大笑いしなくても……失敬な」
と思ったものだ。

川畑さんはわりと細やかな気遣いができる人だったけれども、このときは私が気を悪くするとは考えもせずに大笑いしていた。

私はムッとしていたけれども、実は川畑さんをうらやましくも思った。私は少しでも自分を良く見せたいと思う小さな人間だったからだ(いまも)。

話を戻そう。マンガの描き方を学ぶにはスタートが遅かった川畑さんであるが、自らスポンジのように吸収したと言った言葉に偽りは無く、 わずか半年でメキメキと上達しデビューした。だから、これを読んでる遅く始めたマンガ家志望者の人も希望を持って欲しい。

「教わる」→「結果が自分の目に見える」のサイクルがうまく回れば、成長は早いのだ。

川畑さんは、チャンピオンつながりで臨時アシとして板垣先生のところにアシに行ったことがあったらしい。 そこで何かを学んだかどうかについては何も語らなかった。本当に臨時のヘルプで、そんな余裕のない修羅場だったのだろう。

さて、洗いざらい話すと書いたからには、ここらで川畑さんと私の共通の編集者であったSさんについても書こう。

もちろん、共通の編集者に対して、当人のいないところで出る話題とは、当然にして愚痴であるから、Sさんは知りたくないであろう話であるが、我慢してほしい。

Sさんは川畑さんの『S60チルドレン』の後期の担当編集者であり、私の『浅倉家騒動記』の前半の担当さんだ。

すなわち、私をデビューさせてくれた大恩人であり、実を言うと私の方には愚痴はまったくなかった。いちおう、川畑さんに調子を合わせて赤ら顔で
「Sのバカヤロ~」
と声を合わせてガハハと笑ってはいたが。

私にとっての大恩人がSさんであるのと同じく、川畑さんの大恩人は梶原さんだ。くり返すが、川畑さんにマンガの手ほどきをしたのは梶原さんであり、川畑さんは梶原色に染められたと自分で言っていた。問題はそこにあった。

川畑「まず最初のネームを出すでしょ。さすがに1発OKとは思ってませんよ。Sさんに見せて、意見を聞いて、Sさんの言うように直すじゃないですか。そして、編集長チェックになるでしょ」

川畑「そしたらですね、梶原さんの『ここはこうしたら』って指示といっしょにネーム返ってくるでしょ」

川畑「で、梶原さんの指示通り直したら、ほぼ最初に出したネームに戻るんですよ。それが載るわけですよ。そういうことがちょくちょくあったんです。」

川畑「Sさんはよくやってくださるんですけど~。やっぱそういうことがあったときは『あのヤロー』と思っちゃいますよね(笑)」

フォローしておくと、決して深刻に悩んでるような愚痴ではなかったので、Sさんは安堵してほしい。
「まったくしょうがねーなー(苦笑)」
という程度の愚痴だ。

川畑さんとSさんは同い年(だったと思う)、同世代であり、あの時代の小学生の常識が説明しなくても通じるのでやりやすいとも言っていた。

『無頼犬テイル』は、
「犬マンガを描いてはどうか?」
という担当編集者の意見で描いてみたのだという。

勝手な憶測だけど、編集者は現代を舞台としたホームドラマ的なものが欲しくて“犬マンガ”と言ったのではないだろうか。まさかのバイオレンスSFに驚いたのでは?想像してる。

この、犬マンガを提案した編集者は、私はてっきり梶原さんだと思い込んでいたのだけれど、先述した通り現モーニング編集長の島田さんだった。

『無頼犬テイル』については、川畑さんに直球で
「クリフォード・D・シマックの『都市』の影響があったりします?」
と聞いてみた。答えは
「いや、ちがいますね」
であり、話はそこで終わった。

答えが
「それ、なんですか?」
ではなかったところが気にならないでもないが、 今となっては川畑さんが『都市』を読んでいたのかどうか、聞くこともできない。

ところで、川畑さんはセリフを編集がいじることに関しては頓着しないというか、むしろどんどんやってというスタンスだった。
「僕は日本語に自信がないんで、どんどん直してもらってかまわないです」
と。

私は日本語に自信があるわけじゃないけど、やっぱり無い知恵を絞って考えた言い回しが変えられたらやる気がなくなる方だ。

この辺は作家次第、作風次第の問題だろう。

あとは、なにかあったかな……。『S60~』ではクラスメートにナンバーが振られていた。その数字が3ケタなのをツッコんだことがある。

桝田「いったい何人学級ですかwwwww」
川畑「グフッ それくらい連載を続けたいっていう心意気の現れですよ!目指せこち亀超えですよ!」

賭けてもいいけど、とっさに出した苦し紛れの理由にちがいない。

そのあと、1キャラ1話にこだわっておらずネタになるキャラなら何度も主題にしたいと考えてる……という話をしていた。

そういえば、『S60~』で主人公がバスケしてたので、本人もバスケをしてたのかどうか聞いてみた。YESとのことだった。

本人のプライベートな部分について私からたずねたのは“光子は実在するのか”と、この“バスケ部だったのか?”の2点だけだ。

「もう自分の切り売りですよグホホ。ほんとは少年誌に行きたいんですけどね~。でも自分切り売りでしかデビューできなかったから。これで当たらなかったら自分どうすんだって話でグフフ」

そしたら杉作さんも
「オレもデビュー前はずっとボクシング漫画を持ち込んで全然ダメで、なぜかいま犬猫マンガ家だよ」

仲間ハズレは嫌なので私も
「本当は、ギャグじゃなくストーリー漫画家を目指してたんですよね。ギャグなんて枠が少ないのに強豪の先生がひしめいてるから……」

というわけで、
「本当は描きたくないものを渋々描いている三人」
として結束を固めたのであった。もちろんその場の流れで出た冗談で、全員本心ではなかった(と思う)。

三人の飲み会の二回目は、たしか講談社漫画賞の贈呈式パーティーだった。第27回だった。我々が受賞したわけではない。

会場は赤坂プリンスホテル。三人とも人生初赤プリ。地下鉄の出口で落ち合い、徒歩で会場入りし、リムジンでホテル入りする人々を見て、ああなりたいもんだということで三人の意見が一致した。

壇上の受賞した先生方を見て、いつか自分たちもあそこに立ちたいということで三人の意見が一致した。

パーティーのあと(そして、この日以外の飲み会でも)、いつかビッグになって銀座で豪遊しようと毎回、三人の意見が一致した。

私は小林まこと先生の『青春少年マガジン』を読むと、ついつい自分たちの姿をだぶらせて読んでしまう。 規模は小さく、3バカと呼ばれたこともなかったけど、間違いなくあの頃、私たちはトリオだった。

第28回講談社漫画賞の授賞式には行かなかった。川畑さんは電話で
「行くと、なんかくやしくなるから」
と言っていた。

意外に嫉妬心があるんだな……とそのときは思ったけど、すでに病魔によって体調が悪かったのだろう。

覚えてることの羅列なので脈絡はないけど、最初はつけペンで描いていた『S60~』は、イブニング時代からミリペンやサインペンになった。

アシを使わず一人で描いていたので、締め切りがきつかったようだ。

前述したように、連載の最後の方で私にアシスタントを打診してきたこともあった。 結局は間に合ったようで、私は手伝わなかったけれども。終盤で、特に絵が荒れてる回があれば、それである(どことは言わない)。

すでにミリペンになってしばらくしたころ、つけペンじゃなくてもいいのだろうかと相談されたことがある。

「印刷に出るならどんな道具でも問題ないです。僕もミリペンを使ってます。締め切りを守るのがマンガ家の最重要任務です!」
とアドバイスしたのは私だ。川畑さんが絵が荒れてでも原稿を落とさないよう務めたのは、私に責任がある(謝罪も賠償もしない)。

ところで、ネットのちからで私の知らない「秋田書店での川畑さんの担当編集」が見つかればいいなとは思う。

なにせ、結局は秋田書店の雑誌には1ページも載ることはなかったのに川畑さんはその人のことを
「その人も恩人です。その人にもマンガの描き方をいろいろ教えてもらったんです」
と何度も言っていたのだから……


2008 年の墓参り・ほか

2008 年に行った墓参りなどの話で落穂拾いして、この文章を結ぶとしよう。

2008 年であるから、亡くなってから三年目、四回忌だ。杉作さんと二人で行った。

Sさんから、お墓の位置は
「川畑さんの母校の中学に向かう坂の途中にある墓地」
という情報だけを得て向かった(実際はもっと詳しく教えてもらってたが、プリントアウトした地図を持っていくのを忘れた)。

実は私も杉作さんも方向音痴である。いざというときのために お葬式のときにいただいたご遺族の名刺を持っていったが、なるだけならお手を煩わせることのないようにしたかった。お墓参りをすませたあと、ちょっと挨拶するくらいのつもりで持っていった名刺だ。

結局は、案の定迷ってしまった。名刺の電話番号にかけるも留守で連絡もとれず、お墓は見つからず、小雨がふりだし、絶望しかけた。

飛行機代とレンタカー代を払ってお墓参りできなかったらアホである。

「川畑さん、絶対に空から見ながらグホグホ笑ってるよ~」
と言ったのは杉作さんだったか私だったか。

「いや、川畑さんのことだから『ちょ…わざわざ来ないでくださいよ~~も~』とか苦笑してるかも」
と言ったのは私だったか杉作さんだったか。

半泣きになりながらお墓をさがした。
「お墓にたどり着けなくても、鹿児島まで来たんだから気持ちは十分、天国の川畑さんに伝わってるはず」
などという結論に達しかけた。

そのあたりで、留守電を聞いた川畑さんのお母様と連絡がつき合流して、無事にお墓参りできたのだった。

川畑さんのお墓には缶コーヒーが供えてあった。地元の友人の誰かが供えたのではないか、とお母様。

川畑さんは缶コーヒー好きだったらしい。私たちが会ったときに飲んだのはいつもお酒だったから、缶コーヒー好きとは知らなかった。私もわりと缶コーヒーが好きだから、知ってたら盛り上がれただろう。残念だ。

残念といえば、川畑さんのお墓を探す途中、川畑さんの中学に向かうけっこうな段数のある階段を登った。

私の母校の高校もかなりの階段があったから、これも生前に知っていれば盛り上がれただろうに、と思った。

「武中学校の運動部はみんなあの階段で足腰が鍛えられるんですよー」
とお母様。

お母様と叔母様に逢えたので、川畑さんの姿を撮った写真のプリントと CD-R を渡した。たった6枚の、2メガピクセルしかない、手ブレ補正もないデジカメで撮ったブレブレの写真だったけれども。東京での同業者と遊ぶ川畑さんの写真だ。

もし会えたら渡そうというくらいの気持ちで持っていったものだったけど、目尻を光らせて写真を見つめる叔母様を見て、撮っててよかった、持ってきてよかった…と心からそう思った。

さて、この日、実は杉作さんのご家族が風邪でダウンしており、看病する人がいない状態だった(杉作さんも微熱だった)。一泊して翌日に東京に戻る予定を切り上げ、杉作さんはトンボ帰りしたのだった。

(私はそのとき仕事もなかったので、宮崎の実家に泊まり、ゆっくり帰省を楽しんで東京に戻った)

再び、脈絡のない話。私は人の顔を覚えるのが非常に苦手なのだけど、そのことを川畑さんに驚かれたというか、叱られたことがある。

先述した講談社漫画賞のパーティーか、もしくは忘年会のとき。川畑さん・杉作さん・私が集まっていたところにある編集者が挨拶に来た。

私は見覚えがなかったので、杉作さんか川畑さんに挨拶に来たのだと思って応対を二人にまかせて、自分は控えめに会釈していた。 そのあと、
「いまの誰?」
たずねた。

川畑「なんで桝田さんが覚えてないんですかwwwwだめでしょ、それwwww」

杉作さんにも
「うん、この三人の中では一番、桝田さんにつながりのある人だと思う」
と。結局、誰だったのか教えてもらえなかった。えー?担当さんじゃないしー。編集長じゃないしー。

たまに、自分の中に自分の知らない別人格があるんじゃないかと疑いたくなることがあるけど、これもその一件。

以上が、私の覚えてることの、ほぼすべてだ。

もう、メジャーアップデートのない故人の記憶だけど、人づてに私の知らない川畑さんのことを新たに知り、毎年ちょっとづつマイナーアップデートは続いている。

 

私たちは、三人で飲んでは、いつも
「いつかビッグになろう!」
と言っていた。

 

たいていのマンガ家・クリエーター・ミュージシャンが言うであろう他愛もない冗談だ。

 

川畑さんの死後、命日に杉作さんと飲んでは
「今年もビッグになれなかった。川畑さんに申し訳ない」
と反省するのが毎年つづいた。

彼は死ぬことによって約束を永遠のものとしたのだ。

……なんてことをオッサンが言ったらさすがに石を投げられるか。いまの段落は読まなかったことにしていただきたい。

そんなヨタから出たゆるい約束だったけど、なんと杉作さんは『猫なんてよんでもこない』が大ヒットして映画化も決定した(2014-11-18現在)。

ビッグになってしまった。残った二人のうち一方が約束を果たしたのだから、もう私がビッグにならなくても川畑さんに顔向けできる。肩の荷が降りた……じゃなくて。

次は私の番だ。いまのところビッグの芽も影もなく、望みはうすく果てしなく、その前にマンガ界から消えないことが当座の目標だけど、とにかく心意気だけは、次は私の番なのだ。

グホグホ笑いながら、見守っててよ。ね、川畑さん。

<了>