攻城団でも波瀾万城 第二次上田合戦について

攻城団でも波瀾万城 第二弾

攻城団(全国のお城検索サイト)様のお計らいで、『日本全国波瀾万城(≒どっから見ても波瀾万城)』のスピンアウト作品『攻城団でも波瀾万城』の第二弾をリリースすることができました。

今回の作品のパロディについて
「あさましい……じゃないな……プライドがない……も、ちょっとちがう……」
と、表現に困っていましたが、やっとしっくりする言葉が見つかりました。

節操がない。これにつきる。
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いきなりネタバレしてるわけで、まだ読んでない方にはもうしわけないと思います。しかし、その迷惑を未読の読者にかけてでもアクセス数を上げることが最優先事項なので、こちらの事情をお察しいただければ幸いです。これは不幸のネタバレ画像です。五人以上に拡散すれば、不幸は解消されませんが、多少は気が晴れます

マンガでわかる上田城(第二次上田合戦) | 上田城の歴史・うんちく | 攻城団(全国のお城検索サイト)
http://kojodan.jp/castle/60/memo/2709.html

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解説、あるいは補足

節操のないパロディをやってますが、マンガの内容はかなりガチです。作者の推測も多く含まれていますが、重要な部分では巷説ではない信頼度の高い史料に基づいた物語になっております。

以下、このエントリで解説します。長くなります。ネタバレします。家に帰るまでが解説です。

犬伏の別れの実在性

ひろく人口に膾炙《かいしゃ》した話に、真田親子の「犬伏の別れ」があります。 石田三成挙兵の知らせを受けて、真田親子は密談した。徳川と豊臣、それぞれ別れてつけばどちらかは生きのこれる。勝ったほうが負けた方の助命嘆願をしよう……と決めて、親子が涙の別れをして昌幸と信繁(幸村)は犬伏から上田に戻った、という逸話です。

昌幸と信繁は犬伏から上田に戻ったのは事実ですが、実は密談があったかどうかはわかっておりません。

二手に分けて家を存続させるというのは戦国時代によくあった戦略。おとなり小諸のの仙石家でも仙石秀久は徳川についたものの、次男の仙石秀範が豊臣についた……となれば、密談があったようにも思えます。

しかし、仙石秀範は独断で豊臣方に走ったとみられ、勘当されています。信幸との密談はなく、昌幸・信繁が独断で離脱した可能性も捨てきれません。

ただ、信幸はどうも上方の謀反を予想していた節があります。この年、病気療養のためとかいろいろ理由をつけて、奥さんを沼田に呼び戻していました。

離反した昌幸が沼田城に入ろうとして、城を預かる信幸の妻に拒否された逸話が有名ですが、本来なら大阪で人質になってるはずの信幸の妻が沼田にいたのは、そういう理由です。

また、この時代の常として
「どちらにつくかという大問題を、家老と相談せずには決められない」
という前提があります。家中の命運がかかっているからです。

徳川と上方の関係が険悪になったとき、真田家のそれぞれ(昌幸家・信幸家・信繁家)でも事前に話合いが行われ、家中の総意として、どちらにつくか決めていたことでしょう。

当主の嫁の出自だけで決めたわけはないのです(重要な要素のひとつであったとは思いますが)

犬伏の別れは、その事前の取り決めどおりに行動することを確認するために昌幸・信繁が信幸の陣を訪れた可能性はあると思われます。そして、徳川に疑われないように、形式的に去る昌幸・信繁に向かって鉄砲を放ったというのも、ありえる話です(※逃げる昌幸・信繁に信幸が鉄砲で射掛けたとする軍記がある)

徳川秀忠はどういう進路を使ったのか?

今回のマンガのキモ。道の話。

多くの本では「秀忠は中山道を進んだが上田城に篭城する真田親子に上洛を阻まれ遅参した」と書かれます。しかし中山道について調べると、中山道は上田を通りません。いったいどういうことなのか。

まず、大前提として以下をふまえてください。

  • 徳川秀忠の最初の目的は上田征伐だった
    • なぜなら真田を放置して西進しては関東(江戸)が危険だから
    • したがって上田征伐のために陸路を選んでおり、上洛のために陸路を選んだわけではない
  • 徳川の部隊温存のため、家康軍と秀忠軍に分けたわけではない
    • 兵力温存なら江戸に駐留させておけばいい
    • 仮に家康が謀反などで死ねば、秀忠は信濃の山中にとりのこされ、本能寺のときの家康の伊賀越え以上の危険にさらされる。よって兵力温存説はありえない

ようするに、上洛する秀忠がついでに真田を倒そうとしたら邪魔されて遅れた……とか、徳川軍の兵力温存のために東海道軍と中山道軍に分けたのだ……という説は、もはや数周遅れというわけです。

なぜそんなことを言うかというと、今回の話の最初のプロットでは、兵力温存説を物語の核にしようと思っていたからです。手柄にはやり危険をおかしたがる秀忠を本多佐渡守正信がうまくだまして、兵力温存させた……それもこれも家康の親心から……という物語にしようかと思ったのです。

が、ありえないといわれちゃあ、路線変更せざるをえない。

そこで、秀忠軍の進路、上田征伐を中止し中山道で上洛が指示されたのはいつか、秀忠はその命令をいつうけとったのか、たんねんに調べてみました。

それを時系列で示すとこうなります。

秀忠上洛命令関連の時系列

8/27

午前、岐阜城陥落の報せが江戸に届く。この日、秀忠に上田征伐を中止し中山道上洛を指示したと諸将に伝える手紙が出される。秀忠は松井田宿(碓氷峠の手前)に駐留。

中納言先中山道可押上由申附候……徳川家康から池田輝政・黒田長政・藤堂高虎らに遺れり 27 日の書状。 中山道を押し上ることを最優先するよう、秀忠に申し付けた……という意味。

中山道での上洛を最優先せよとは書いてあるが、上田征伐を中止せよとは書いてない(ただし中山道を行くということは東山道の上田には向かわないという意味になる)。

申し付けたと過去形で書いてある以上、秀忠にもその書状が発せられたとみなければならない。 江戸 – 松井田 間は約 140km 。飛脚なら半日で到着可能。荒川・利根川で川止めがあったとしても陸路なので、秩父街道などで迂回路はある。

8/28

近日彼地へ押詰、手置等申付、隙明次第可遂上洛覚悟候……徳川秀忠から池田輝政・黒田長政・一柳直盛らに遺れり書状。 28 日、松井田から出されたもの。

秀忠はこの日もまだ松井田に駐留。意味は
「近日中に彼の地(上田)に行って真田昌幸・信繁親子を処分し、暇ができ次第すぐに上洛する」
というもの。しかるに、上洛命令は 28 日には秀忠に届いていたとわかる。

そして、秀忠は上洛するとは言っているが中山道を使うとは言っていない(上田に向かうということは、少なくとも塩尻までは中山道を使わないという意味になる)

8/29

徳川正史によれば、秀忠に上洛を促す使者の大久保忠益が江戸を出発。旧暦の小の月であるため、この日がこの年の八月末日。秀忠は軽井沢を経由し信濃大門に到着。

9/01

家康、江戸を出発。東海道を西進。秀忠、小諸に到着。真田と交渉し、作戦を練っていたと思われ、上田に進軍するのは 9/5 以降。

将又真田表為仕置出陣候、頓而隙明次第可令上洛候……徳川秀忠から浅野幸長に遺れり 9/4 日の書状。内容は 8/28 のものとさほど変わらない。真田を仕置きするため出陣し、それが終わったらすぐに上洛する、の意味。ここでも、上洛に中山道を使うとは回答していない。

9/05~08

第二次上田合戦。どのような戦闘だったのか、ほとんどわかっていない。秀忠は上田城を攻略できなかったという一点だけは確か。

9/09

徳川正史によれば中山道押上の命令を伝える使者の大久保忠益が到着。秋雨のために川止めをくらい遅参したことになっている。好天なら2日で到着する距離。川止めがあったにせよ、東海道とちがい迂回路が複数ある陸路でこれほど遅参したのは、なにか別の理由があったのではないか。もしくは正史が正しい歴史を伝えていない可能性。しかし、疑念を立証するような材料はいまのところない。

この撤退に関して、『三河物語』(大久保彦左衛門)は、
「本多佐渡守正信が繰引をしたと喧伝している。繰引は籠城戦でやるものじゃないので誰も繰引とは気付かなかったが佐渡が言うからには繰引なのだろう。あいつにできるのは鷹狩くらいのもので、繰引なんぞ指揮できるやつではないのだが。みんな「佐渡の繰引」と言って笑った。ともかく、佐渡は繰引をした(大意)」
と書いている。ただし大久保彦左衛門は秀忠軍には従軍しておらず、この話は伝聞。また、大久保彦左衛門は本多正信を嫌っていたようで、『三河物語』において過剰に悪く書かれている節がある。

9/10

撤退した秀忠、小諸に到着。先に述べた通り、東山道と中山道の分岐は松井田だが、さすがにそこまで戻らず小諸から南に向かい塩名田から中山道に入ったようだ。

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東山道信濃国略図(1752)だけをソースにマンガではそう断言してしまったが、執筆後に東山道信濃国略図より古い正保の信濃国絵図(1647)を丹念に調べたら、千曲川には敷板のある橋が絵図では五箇所あった(うち二箇所は諏訪部と塩名田)。

のこる三箇所のうち二箇所は上洛とは関係ない橋だが、ひとつは信濃国分寺跡に近い大屋にかかる橋で、ここを南進すればより短い距離で中山道に入ったはず。この橋が当時存在していたとすれば、秀忠がなぜそこを使わず小諸まで戻ったのか、筆者にはわからない。

9/13

撤退した秀忠、中山道を使って下諏訪に到着。日本戦史には、榊原康政は本道(中山道)を行き、秀忠らは脇街道を使ったとある。

これを裏付ける一級史料は見当たらないが、ありそうな話だと思う(後述)

9/14

関ヶ原合戦の日。秀忠は木曽路の山中。

9/17

秀忠、木曽路を抜け妻籠に到着。関ヶ原の報を受け取る。

9/19

我々儀、路次中日夜早申候得共、せつ所故遅候て手あひ不申事、迷惑御推量可被成候……徳川秀忠から浅野幸長に遺れり 9/19 日の書状。美濃赤坂から出された。夜通し急いだけど勾配の急な難所が多く間に合わなかった迷惑かけてスマン、の意味。

以上をもって「秀忠は中山道を上洛したの?それとも東山道?」問題の解答は、
中山道を上洛するように命令されたけど、当初の目的の上田征伐を優先させて東山道を進んだ。しかし失敗して小諸に戻って中山道を使って上洛した。
となります。

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なぜ、秀忠軍は中山道押上令を無視したか

わかりません!はい、言い切った!

いろいろ推測はできると思いますよ。家康と秀忠の温度差もあるでしょう。岐阜城陥落の意味が若い秀忠にはよくわかっていなかったというのも、もちろんあると思います。

マンガに書いた通り、真田を無視して西進できないというのもあったでしょう。当初、真田を放置はできないという理由で進軍してたのに、真田を放置して上洛しろと言われても、危険に晒されるのは自分達だから。信濃路は真田のホームタウン。いつ襲われるかわからないまま、進軍するのはためらわれて当然。

先ず中山道を押し上れと言われても、現場を知らんと気楽に言いやがって……てなもんでしょう。

これも三河物語の話ですが、武田勝頼の時代に徳川が武田と何度も戦をしてるわけです。

で、そのころの武田はゲリラ戦に戦略をかえていたようで、平原や盆地でなら陣形を用いて数の利で勝てるのだけど、 細い山道で前後の部隊から死角になった少人数が少しづつ少しづつ殺される。だから大敗したという感じでもないのに、目的地に着いたらずいぶん兵が減っていたということがよくあった……と徳川は嘆いています。

勝頼存命時代の話ですけれども、おそらく真田にもその武田の用兵は受け継がれていたのでしょう。第一次上田合戦で「古強者が疲弊しており今日は新参者だけで戦った。だから隊列が乱れた」というのは、疲弊の理由は三河物語に書かれていないけれども、山道で古参兵が新参兵を守らねばならなかったからではないかと推測しました。

そういうわけで、十五年前の古強者は隠居してる。十五年前を知ってる現在の古強者はトラウマになってる。朝鮮出兵に参加しなかった徳川は合戦未経験者が多い……となれば、真田を放置して山道を行くという命令に従えなかったのもうなずけます。

しかし、もっと大きな理由は
中山道は、まだ整備されておらず、道が悪かった
のではないかと思うのです。

中山道。古代に大和朝廷が築いた東山道をベースにした、江戸から京都までの部分……と教わるので、似たようなもんだろうと思いますが、実はずいぶん違います。

東山道と中山道の信濃(長野県)での道のりを略図にするとこう。
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簡単に言えば東山道は美ヶ原を北に迂回して中央アルプスを東に迂回し伊那谷を南下する道。中山道は美ヶ原を南に迂回やや横断して中央アルプスを西に迂回し木曽谷を南下する道です。

自動車に乗る人なら気付くかもしれませんが、東山道は高速道路の中央道・長野道・上越道と重なる部分が多いです。

東山道……大和朝廷が地方を支配するために築いた五畿七道は、地元の人の使いやすさよりもひたすら早さをもとめた直線道路でした。情報の伝達と軍隊派遣のための道でした。このルートが現代の高速道路と重複することは、あまり不自然なことではありません。

しかし、植生の盛んなこの国で道路網の維持には莫大な費用がかかります。律令制が崩壊すると、東山道も維持されなくなり、道路は地元の人間が自分達のために使う地方道が主体となっていきます。

こうした道は、地元民が毎日使う道ですから、直線距離の短さは優先されず、勾配がゆるやかで、ぬかるみが少なく、飲み水が得られやすい道のりに変わって行きます。中山道もそういう道のひとつです。当然、軍用のための道ではない。

支配者はそれじゃ困るので、鎌倉幕府は鎌倉街道、武田信玄は棒の道……と軍用道路を築くのだけど、結局、近代まで大和朝廷ほどの土木力を持った中央集権された政府は現れませんでした。

信長も武田を滅ぼした直後に道路整備を命じてますし、秀吉だって命じてはいるのだけど、お金はどれくらい出したのやら。 命じただけで丸投げっぱなしなうえ、小田原合戦もあって東海道以外の関東甲信の道は荒れ果てていたのではないでしょうか。

江戸幕府も五街道を整備したけれども、結局は地方道をなんとか軍用にも使える程度に整備しましたというもので、古代の東山道のレベルには及ばなかった。

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で、1600 年当時の秀忠に話を戻します。行軍には牛馬が使える道でなければなりません。このとき秀忠が塩尻に向かう道として選べた道は3つ。

  • 東山道:荒廃が進んでるが、道幅平均 12m(奈良時代) 6m(平安時代) の、かつての高速道路
  • 中山道:地方道として利用はされているが国道としてはの整備はまだ。道幅平均 5 ~ 7m
  • 古東山道:大宝以前の大昔に築かれた。武田の軍用道路として整備されたが、武田が滅亡して二十年たっている。道幅平均 ?m

三万もの軍隊が進軍するには大量の物資の運搬が必要で、それには牛馬の力が不可欠です。

服部英雄氏の表現を借りれば、中世において馬は乗用車、牛はトラックなのですが、彼らは人間が渡れる丸木橋や蔓橋を渡れません。

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訓練された馬なら敷板がある橋なら渡れるようですが、牛はほんの少しでも川底が見えると、絶対に渡らないそうです。 そういう橋では土をかけたりして牛の視界から川を隠すしかない。橋のたびにそんなことをやっていては進むに進めない。

ですから、行軍に牛を利用するとなると、現地の住民の牛を借りて、川から川まで荷物を運搬し、川の向こうで別の牛に積み替えるというようにしていたようです。

つまり住民がいなくてはいけないわけですが、塩名田に宿ができたのは江戸幕府の開幕後。

また、旅人が峠を越えるのに人足(ポーター)が必要と言われた和田峠に宿ができたのも、やっぱり江戸幕府の開幕後。

その上、基本的に地方道だった整備前の中山道は、道幅も東山道よりずっと狭かったはず。秀忠軍は3万もいたので、細い道だと簡単に渋滞が発生しかねなかった。

中山道じゃ進軍は大変だ、荒廃してても東山道のほうが、まだマシだ……というのが秀忠隊の判断だったのではないでしょうか。

妻籠から美濃赤坂までの美濃路は2日で走破したのに、小諸から妻籠まで7日もかかったのは、家康と秀忠の意識の温度差ではなく、本人が弁明している通り、道が悪かったからでしょう。

榊原康政は本道(中山道)を行き、秀忠らは脇街道を使ったのも、先発隊である榊原康政隊が和田峠で渋滞したので急遽、別のルートを使ったというのが素直な考え方だと思います。榊原康政と本多正信の不和に理由を求めるのは、創作が過ぎる感じです。

現代の我々だって、幹線が渋滞してたら住宅街の抜け道を探すでしょ?いっしょですよ。

……と、いろいろ理由は考えられますが、いまのところ立証する材料はないので、秀忠が当初、中山道押上令を無視して上田に向かった理由はわかりません!としておきます。

そんなこんなで実は今回の話、城の話にはほとんどなっていませんが読者様のお目こぼしを賜れば幸いに存じます。

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