攻城団でも波瀾万城 真田丸について

攻城団でも波瀾万城 第三弾

攻城団(全国のお城検索サイト)様のお計らいで、『日本全国波瀾万城(≒どっから見ても波瀾万城)』のスピンアウト作品『攻城団でも波瀾万城』の第三弾をリリースすることができました。

マンガでわかる真田丸 | 豊臣大坂城の歴史・うんちく | 攻城団(全国のお城検索サイト)
https://kojodan.jp/castle/137/memo/2813.html

大坂冬の陣で徳川が講和して撤退したのは地震のせいかもよ?というマンガを描きました。
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いきなりネタバレしてるわけで、まだ読んでない方にはもうしわけないと思います。しかし、その迷惑を未読の読者にかけてでもアクセス数を上げることが最優先事項なので、こちらの事情をお察しいただければ幸いです。これは不幸のネタバレ画像です。五人以上に拡散すれば、不幸は解消されませんが、多少は気が晴れます

マンガでわかる真田丸 | 豊臣大坂城の歴史・うんちく | 攻城団(全国のお城検索サイト)
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解説、あるいは補足

そもそも、なぜ徳川は撤退したかを、もっと深く考えたい

まず、基本的に徳川が早々に講和して撤退したのは、基本的に
「大坂方の抵抗が予想以上に激しかったため」
とされており、そこに疑問を挟む論説は、私は未見であります。

したがって、このマンガと今から述べることは、オレオレ説、独自研究、第三者の検証を受けてない珍説のたぐいであります。読者様におかれましては、眉に唾を塗って読まれますよう、お願いいたします。

(普通に真田丸の攻防をマンガ化すりゃよくて、学者でもないマンガ家が珍説を唱えてんじゃねーよ、と我ながら思うのですが、でもやっぱり、
「これ、マジ?」
と思わせたい…読者を驚かせたいというのが私の創作の原動力であり、慶長十九年十月二十五日の地震 – Wikipedia を知ってしまったからには、それを描かざるをえなかったのです…)

というわけで、マンガでも説明しましたが、論拠をもうすこし詳しく述べましょう。

  • 城とは攻めても落ちないというのが戦国後期の常識
    • 小田原合戦も長期戦だった。大坂は一国一城のみの籠城とはいえ、最新式の城郭
    • 秀吉が兵糧攻め・水攻めを多用したのも、戦国後期の城はゴリ押しで攻めると被害が甚大になるから
    • 戦国時代が収束したのも、城に対して兵糧攻め以外有効な手段が存在しなくなったからという意見もある。攻めるほうにしてもコストがかかりすぎ、また守るほうにしても近世城郭は建造費・維持費が莫大になった。したがって、武士がペイしない戦争を望まなくなったからだと
  • 大坂城は信長相手に10年戦い抜いた石山本願寺がルーツである
    • 多重の濠に守られた難攻不落の城であることは、徳川も予想していたはず
  • 諸将はもちろん、徳川とて大部隊を江戸から大坂まで派遣するのに巨費を投じていたはず。ちょっと攻めて、すぐに落とせないから引き返す、という性質の合戦ではなかったのではないか?
  • 大坂方の抵抗が予想以上なら、積極的な攻撃を控えて、こう着状態を維持すればよかったはず。撤退する理由としては弱い

以上のことを考えると、
大坂方の反抗が厳しいものであること、最低でも半年はかかることを想定の上で進軍してなくてはおかしいのであり、戦闘開始して1ヶ月目に講和の交渉に入るというのは異常と考えざるをえないのです。

それに、大坂方の抵抗が予想以上に厳しいとされていますが、真田丸の攻防で一矢報いたと思われる程度で、おおむね幕府方が優勢に戦局を進めているんですよ。

大坂の陣 – Wikipedia では、徳川方は豊臣方の買占めによる兵糧不足があり、また真冬の陣でもあったため(中略)和平交渉を行っている としているけれど、敵方が敵地の物資を買い占めてるのも、冬が寒くて戦闘に適さないのも、想定できてなきゃおかしいでしょ。

シロウトかよ、という。

兵糧不足は補給線が維持されている限り問題ないはず。そして大坂一国で籠城する豊臣方に補給線を叩くことはできない。

冬が寒いったって、たいして雪が積もるわけでもない大坂ですよ?朝鮮半島の厳寒を経験した武士達にとって、それほど問題だったとも思えない。

にもかかわらず、講和を急いだ。そして夏にはまた戻って来たのだから、徳川としては無駄金をドブにすてたも同然なわけで、 それでもいったん撤退しなくてはならない理由はなんだったのか。

単純にひとつの理由だけで決まったわけではないでしょう。複雑な事情が絡み合ったのだと思います。

そもそも徳川としては方広寺鐘銘事件で無礼を働かれたことに怒っているのだから、豊臣が謝罪し武装解除すれば、それ以上戦う理由はなかったとも考えられますし。

そうした様々な理由のひとつとして、私は開戦直前に起きた、非常に広範囲でかつ正体のつかめない、慶長十九年十月二十五日の地震 – Wikipedia に着目したのです(以下、慶長十九年広域地震と略します)。

慶長十九年広域地震

『わが国の歴史地震の震度分布と等震度線図』社団法人日本電気協会より引用

引用元は、社団法人日本電気協会『わが国の歴史地震の震度分布と等震度線図』

越後高田で津波被害とあり、以前は越後高田が震源だと考えられていたため、慶長十九年高田大地震とも呼ばれます。 ただし現在は高田が震源だと考える学者は少なく、慶長十九年高田大地震とは呼ばれなくなってきています。

上の図は当時の記録(日記や報告書)から推測した震度分布図です。現在使われている震度のような統一された指標はないので 「大地震」「大きい地震」「強い地震」といった表現や被害の状況から推測した震度となります。

マンガでは銚子と高田と伊勢で地震があったと書きました。想像に難くありませんが、一発の地震でこの三箇所で津波が発生するというのは、現在の地震学からは考えられないことです。

ただまあ、銚子の津波というのは”数センチ~十数センチの潮位の変化”にすぎないものでした。

伊勢の津波は、別年の地震と記録の混同が起きてる可能性があり、本当に津波があったかどうかは疑問だそうです。

高田ではたしかに津波が起き、被害も発生していたようです。

ただ、これは私が参考にした資料では言及されていませんでしたが、高田では後年、名立崩れ – Wikipedia と呼ばれる地震にともなう海岸の土砂崩れが発生しています。

慶長一九年広域地震でも土砂崩れが発生したとすれば、山津波を普通の津波と誤伝した可能性や、海岸での土砂崩れによる津波(海底の隆起以外の原因の津波)だったのかもしれません。

ですから、津波についてはそれほど考慮しないことにしましょう。

震度分布には載っていませんが、地震の記録は会津と伊予にも存在します。松山(伊予)では、地震の直後にお湯が止まったという報告が残っています。

江戸~高松まで震度4~5クラス。しかし震度6や7といった場所は記録に現れない。これは、現在の我々から見ても奇妙な地震です。

ましてや、新聞もラジオも電話も電報もない時代に、国元を離れて大坂に集結した諸将の不安はどれほどのものだったか。

範囲の広さを考えると、震源での被害はすさまじいものだと想像せざるをえない。万一、自分の国元が震源だったら……報告すらできないくらい壊滅していたら……

ちなみに、私はマンガのネームを切ったとき、旧暦と新暦をとりちがえて時系列を間違えてしまいました。

緒戦である慶長19年11月19日(1614年12月19日)、木津川口の戦いと、11月26日(1614年12月26日)の鴫野・今福の戦いのあいだに地震が起きたの勘違いしてたのですが、実際に地震が起きたのは、この3週間前でした。

最後の方で「創作を加えて~」と苦しいいいわけをしているのは、そのためです(笑)

時系列を整理するとこうです。

慶長一九年十月二日(1614/11/3)豊臣が檄を飛ばして開戦準備を始める
慶長一九年十月十一日(1614/11/12)家康は軍勢を率いて駿府を出発
慶長一九年十月二十三日(1614/11/24)家康 二条城入り
秀忠 江戸を出発
だいたいその頃東軍諸将は奈良・大津・大阪近郊に集結
慶長一九年十月二十五日(1614/11/26)慶長十九年広域地震
慶長一九年十一月十日(1614/12/10)秀忠 伏見城へ到着
慶長一九年十一月十五日(1614/12/15)家康 二条城を出発
慶長一九年十一月十八日(1614/12/18)家康・秀忠・諸将が合流し軍議
慶長一九年十一月十九日(1614/12/19)木津川口の戦い(緒戦)

というわけで、家康軍がとりあえず拠点とした二条城に入った二日後に慶長十九年広域地震が発生しています。 当時の自身の記録にわざわざ
「二条城は無事だった」
と記述があるのは、家康が滞在していたからという理由にもよるのでしょう。

先鋒をまかされた藤堂高虎など関西武将はすでに到着していたはずなのに、戦端が開かれるまで3週間もかかっているのは、仮にも将軍である秀忠を待っていたのか、地震があったため情報収集していたのか、判断に迷うところです。

インフラはどうだったのか?兵站は?

地震が起きて、諸将は情報収集する。4~5日目には早飛脚で江戸の状況を京都で受け取ったことでしょう。 もっと遠い地方の情報も、10日後までには、把握していたはずです。

とりあえず、壊滅的な被害はどこにも出ていない。

いちばん大きな被害が京都で、死傷者二百人超え(史料によっては、京の被害は落ちてきた天水桶の水を頭から浴びた男だけだった、というものもあるのだけど)。まず、京阪で家屋が多数倒壊したのは間違いなく、慶長十九年広域地震の震源地は京都付近とする学者が多いです。

災害処理というのは大名の大事な仕事で、これを失敗すると自分のクビがやばい。 当時の民衆にとっては災害→神の怒り→政治が悪い→統治者がボンクラ、なのであり、 ぶっちゃけ戦争してる場合じゃないと考えていたのではないかと思います。

しかし、目立った被害がないから戦争開始で意思決定されたのでしょう。

ところが、インフラはどうだったのか。

現代のように、コンクリで法面を保護された山道ではない。 橋だって耐震設計されてない。

震度4~5クラスで、簡単に物流が麻痺してしまったのではないか。

それでも時間の流れがおだやかな時代だから、普通の状態ならば、現代社会のように即座に復旧されなければ都市が詰む、ということはなかったでしょう。

しかし、運悪く戦争という”普通じゃない状態”だった。敵味方・総勢三十万の人間が大坂に集結してた。もともと住んでた地元民を除いて。

豊臣は戦争のために兵糧を買い占めていたから、物価の高騰は徳川もある程度、想定していたことでしょう。

しかし、地震によって想定以上に物価が高騰してしまった。現地調達が難しくなった。

かといって、街道が破損しているため、補給も続かない。

そして、街道の修復も難しい。戦争は真冬でもなんとかできる。しかし、山間部の土木工事はこの時代、真冬には極めて難しいんですね。

なぜなら豪雪地帯は言うにおよばず、雪が少ない所でも山間部となると、土が凍って人力では掘りづらいからです。

というわけで、戦争にもっとも重要な兵站に関して、(1)現地調達は予算不足でできない (2)補給は滞っていて春まで回復の見込みがない ……という状態にあったのではないかと思います。

そういったわけで、徳川は、こう着状態を維持すらできずに講和して撤退するしかなかったのではないか?というのが私の論です。大坂方とて、戦争のために痛みを領民に強制してたわけで、さらに地震被災者を放置して戦争を続けては、仮に徳川を撃退できても今後の領地運営が危ういという判断があったことでしょう。

繰り返しますが、これはオレオレ推察であり、第三者による検証を経た、きちんとした論文ではありません。

作家というものは、こうした「思いつき」をする人種だということでひとつ、大目に見てくださいませ。

 

パロディについて

ひとつひとつ解説するのも野暮なんですが、どこがパロディでどこがパロディでないかでイライラされるのも本意ではないので。順に、エヴァ、ガンダム、パトレイバー、あ~る、ナウシカ、マクロス、藤子F、マジンガーZ、F.S.S.、ガンダム、ウラシマモト、(全体を通じて)シン・ゴジラ …です。これ以外のものが発見されたら、それは作者の意図しない偶然の一致とお考え下さい。

信繁が六門銭のオブジェのようなものを袈裟懸けにしてるのは、兜をつけて顔が隠れたり、絵柄が変わっても、信繁だとわかるようにという記号であり、パロディではありません。ただ、袈裟懸けは本多忠勝が数珠を袈裟懸けにしていた逸話を参考にしました。

……最初は、地震ネタだから『日本沈没』のパロをやろうかと思ったんですよね。 ふと、真田丸がシンデンガンと読めると気付いて、じゃあシン・ゴジラのパロをやろうか→それなら巨神兵やりたい→だったら……という感じで、こうなってしまいました(『日本沈没』のパロは入れる所がなくなって消されました)。

拡散熱望

マンガがバズれば、新作をお目にかけられる可能性が高くなります。私も仕事を得てあなたも新作が読めてウィンウィンの関係になろうじゃありませんか。

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