大阪城にも匹敵する巨大すぎる面積の陣屋跡地!赤山陣屋

天才的なポピュリスト一族の痕跡 赤山陣屋址

前知識もなく、下調べもせずに、あーんまり期待せずに行ったら、これがすごかった。広かった。緑が深かった。

お城好きもそこそこ年季が入ってくると、お城だけじゃなくて陣屋というものも見に行くようになります。

陣屋。なんでしょうか。

  陣屋 – Wikipedia
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A3%E5%B1%8B

ようするに、城を持ってない小名の藩主が政庁をおいた役所兼居館や、城はあるけど要害の地すぎて不便なので都市に政庁を置いた場合の役所兼居館とか、幕府直轄領を治める代官の住む役所兼居館とかです。

江戸幕府の定義では城ではないものの、堀があり、土塁があり、ときには複数の曲輪もあります。要素的には戦国中期くらいまでの武士居館と同じなので、まあ城の親戚みたいなものとして見に行くわけですね。

ちなみに、龍岡五稜郭も正式には陣屋です。

そんなわけで赤山陣屋址。家からママチャリで行ける範囲にあるということで名前だけは知っていたので、意を決して向かったのでした。気温36℃の中をママチャリで。

着きました。空掘も確認できる。土塁もある。おうおう、思ったよりいいじゃないですか。
赤山陣屋址

赤山城跡の碑。ん?城?はい。埼玉県の県指定史跡には赤山城址( or 跡)で指定されているようです。
赤山陣屋址 碑

しかし説明板では一貫して「赤山陣屋」で通されています。どういうこと?

その説明板。うわ!25cm 四方の銅板で細かい字でビッシリ!ガチ勢の悪い意味でのオタ気質が発露されちゃった!
赤山陣屋址 説明板

このときは撮るだけとって、帰宅してじっくり読んで、なんとなくわかってきました。

まず、この赤山陣屋を作ったのは徳川家の家臣で、この地域に代官として赴任した伊奈氏。

  伊奈氏 – Wikipedia
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%A5%88%E6%B0%8F

足利氏の支流といわれ、伊奈に所領を得たのち戦国時代に本領を捨てて敗走し、三河松平氏の家臣になったらしい。

伊那谷で鍛えられたか、武田の治水術を学んだ渡り侍が家中にいたのか、とにかく、伊奈氏は江戸時代、利根川水系の治水工事と北関東の年貢収入アップのために、この地へ代官として遣わされたわけですな。

この人事を決めた奴の眼力がすごかったのか、代官となった伊奈忠次が努力家だったのか、とにかく伊奈忠次は結果を出した。

そうして、利根川と荒川が分離され、新田が開発され、うなるように米の収穫量が上がり、伊奈氏の地位と重要度はすさまじく高まった。

ここに権力と富が集中しているわけだから、いきおい人も大量に雇わねばならず、普通の城並みの防衛機構も備えねばならなかったと。

そんなわけで、この赤山陣屋、当時の家臣屋敷まで含めると現在の大阪城並みの大きい敷地面積を誇っていたのでした。
akayama_castle_024.jpg

現在、遊歩道がある程度整備されている本丸と二の丸あと少しだけでも、東京ドームと後楽園ゆうえんちくらいの面積があるそうです。

……が、説明版の説明をイチから十まで鵜呑みにするようなおあにいさんとは、おあにいさんがちがうんでいっ

Google Map で面積を調べられるサイトで検証したところ、説明版の面積は、若干、誇張があるようでした。以下が私が手作業で調べた面積です

  • 東京ドーム+東京ドームシティのアトラクション部分: 67,000㎡
  • 赤山陣屋の本丸+二の丸+山王公園+山王神社: 80,000㎡
  • 大阪城内堀以内の面積: 90,000㎡
  • 赤山陣屋の家臣屋敷地まで含む面積(大雑把な計算):520,000㎡
  • 大阪城外堀以内の面積: 600,000㎡

やや誇張はあったものの、「大阪城に匹敵する」「本丸+二の丸に東京ドーム+後楽園遊園地が入る」という表現は正しいと言えましょう。

そんな広い史跡だったなんて!私はてっきり難波田城公園(埼玉県富士見市)程度のもんだろうと、たかをくくっていたのに!

そしてその広い敷地のあちこちに、例の悪い意味でガチな説明板が点在してるのであったああああああ

赤山陣屋址 説明板

24 枚。ひとつとして重複無し。それでも、まるでコンプリートできてる気がしない。ぜったい見落としあるよ……。陣屋を見に行ったらオリエンテーリングをするハメになるとはね。

つまり、江戸幕府の定義上は陣屋なのだけど、堀も土塁も本丸も二の丸も門番屋敷の曲輪(三の丸相当?)も家臣屋敷もある。敷地面積は下手な城よりもでかい。というか、これ、もう城でいいじゃん、陣屋って呼んでいい規模じゃないでしょ……てわけで、赤山城と呼ばれることになったのでしょう。 あるいは、伊奈氏が自分の館を城だと自称したか。

先に述べたように、実際は陣屋なのに通称として城を用いてるケースが無くもないですし、それでもいいのかもしれません。

ただ、個人的には規模は定義の要素に入れるべきではないと思うので、どんなに城っぽくても、ここは役所として建てられ役所以外の使われ方をしないうちに、伊奈氏が改易され払底されたので、城と呼ぶのは控えたいと思います。

 

かつての本丸。
赤山陣屋址 本丸

歴史的な建物は東側に伊奈氏が創建した山王神社が残るのみです。

東京ドーム+後楽園ゆうえんちくらいの現在の城址領域も、大半は苗木業者の敷地です。公園化されているのはごく一部だけで、遊歩道も苗木業者の農道を善意で使わせてもらっているという感じに見えました(これは私の思い込みで、未確認です)

しかし、だからこそ良かった。

東京駅から直線距離で約 19km 。それは、先日行った深大寺城跡とほぼ同じ距離で、北か西かの違いだけで、緑の深さも同じくらい。

ところが、深大寺城は自然公園として公園的に整備されていたのにたいして、赤山陣屋は苗木業者の植栽用の敷地として緑が深い。だからこそ、公園的な整備はほとんどなく、そこが(都心に比較的近い城址としては)珍しくて良かったのです。

だって、こんなんですもん。
赤山陣屋址 遊歩道

見上げても、左右に草の壁。
赤山陣屋址

めっちゃわくわくする。虫除けスプレーを持ってこなかったことだけが唯一のストレス
赤山陣屋址 東堀方面

いい感じの社が。御陣山稲荷、だそうだ。
赤山陣屋址 御陣山稲荷

この手作り感たぷりの鳥居。やめろー、惚れてしまうやんかー。
赤山陣屋址 御陣山稲荷

土の城の定番。空掘と橋。
赤山陣屋址 東堀方面 堀と橋

これをくぐるのが土の城見物の中盤の山場。
赤山陣屋址 東堀方面 堀と橋

かつての門番屋敷のあたりに出てみた。
赤山陣屋址 門番屋敷のあったあたり

とうもろこし畑ごしに見る赤山陣屋本丸方面
赤山陣屋址 門番屋敷のあったあたりから本丸方向

自然公園として整備されているわけでもない赤山陣屋跡が、なぜこれほど緑が深いのか。なんでここに、それほど苗木業者がいるのか。

なぜなら、ここ赤山は現在では盆栽・造園業の町として有名な安行の一部だからである。
植栽の町 安行

それもまた、伊奈氏の歴史に結びつく。

この地に赴任した伊奈忠次は、治水工事に精を出す一方で、住民に植樹や花の栽培を推奨したという。まだ江戸幕府が始まったばかりのころだ。

治水工事のために木材はいくらあっても困ることはないということで、植樹はわかるが花の栽培?先見の明があったか商才があったか、ただの天才だったのか。ともかく、安行の礎も伊奈忠次に始まった。

約五十年後、明暦の大化ののち、伊奈氏は材木や茅を江戸に持ち込み大商いをし、安行のブランド化に成功した。

ブランド化といえば、大きな権力を得た伊奈氏は関東郡代と呼ばれることになるのだが、これがどうも、そんな役職はそもそも存在せず、伊奈氏の自称だった可能性があるというのだ。

(ちなみに、伊奈氏は治水の面でも「伊奈流」というブランドを確立させたが、これは本人らが積極的にブランド化したわけではなく、結果が名声を呼んだ典型だろう(別名で備前流とも呼ばれる。伊奈氏は備前出身でも備前に赴任したこともないので???となったが、伊奈忠次の役職が備前守だった。苗字で呼ばず役職で呼ぶ中世~近世の慣習はほんとクソ)

やはり、ただの天才だったか。あるいは合戦の手柄で出世する時代じゃないといち早く悟ったか。

——いや。伊奈氏の成功の本質的な理由は、徹底的にポピュリストであったことにつきるだろう。 であるからこそ、大名達より早く、財政が傾く前に殖産の奨励こそ必要だと気がついたのだろう。

そうして、伊奈忠次の跡を継いだ代々の伊奈家当主も一代で身上を潰すようなポンコツは生まれず、伊奈氏は十代に渡って、江戸幕府の屋台骨であり続けた。

ことに最後の関東郡代の伊奈忠尊にいたっては、天明の大飢饉の際に米を大量にかき集め(名声と信頼のある伊奈氏でなければ不可能だっただろう)これを江戸に放出して打ち壊し騒動を収拾した。

もともと治水の功績で民衆から崇められていた伊奈氏であったが、これを機にさらに人気が高まった。

(その人気は数百年たっても衰えず、細かい字でびっしり書いた説明版を広い城域にくまなく設置する情熱をも生んでいる)

だが、その米の買い付けの借金を返せず、折り悪く家中で内紛があったこともあり、いろいろ理由をつけられて、 伊奈忠尊は関東郡代を解任され、改易されてしまったのである。

個人的には、伊奈氏に集中した権力や富や人気をねたんだ他の幕僚によって、天明の大飢饉にかこつけてその利権を奪われたのであろうと見る。 そして、伊豆の江川家に匹敵する(もしくは凌駕する)縁の下の力持ちを自ら外した徳川幕府は、自ら瓦解へと突き進んでいったのである。

赤山陣屋は払底され、その広大な跡地は田畑や安行の苗木用地として、民に払い下げられた。

赤山陣屋が廃されたあとも、安行は植木供給地としてますます発展したが、戦後になってかげりが見えるようになった。苗木用地や田畑になった赤山陣屋跡地には、いまでは所々に耕作放棄地があるように私には見えた。

だが、駅から少々離れていたことと、すぐそばに首都高速道路が通り騒音が懸念されたことがよかったのだろう。 あるいは、地主が地元の誇りである伊奈氏の陣屋跡地にマンションが建つことを許せなかったか。

ともかく、今の赤山陣屋跡地は苗木畑、植樹の森、耕作放棄された所に雑草が生い茂った猛烈なブッシュ地帯、公園整備された城址地帯、鎮守の杜などなどが渾然一体となって残る、不思議な魅力のあふれる陣屋跡地となっていたのである。

堀と土塁以外に遺構の残りは悪い。が、広い城域をただ歩くだけで楽しい、冒険心を満喫させるようなドキドキがあった。
赤山陣屋址 二の丸あたり

整備されてたり、されてなかったり。
赤山陣屋址 二の丸あたり

ヤブ蚊がいやなのと、マムシだけが怖かった。とくに二の丸のあたりは、どこからが私有地でどこまで遊歩道かわからないほど猛烈なブッシュになってるところもあった。夏であり、藪こぎの格好をしていなかったので(あと私有地にうっかり入ってはまずいので)退却したが。

なお、整備されているといっても遊歩道と碑と説明版くらいなものであって、トイレと水飲み場は東端の山王公園にしかない。
赤山陣屋址 山王公園

わたしはここをスルーして、まず本丸に向かったので、トイレはともかく(さいわい「それ」はいたさなかったけど、いざとなればそこらじゅうヤブなわけで)、水筒がカラのまま歩き回るのは辛かったです。

なお、本丸そばに自販機はあります。

これも後回しにした山王神社(境内の由来説明版では赤山日枝神社と称している)
赤山陣屋址 山王神社(赤山日枝神社)

伊奈氏が創建した神社だそうで、空堀を掘った土でできた築山の上に建っている。
赤山陣屋址 山王神社(赤山日枝神社)

創建当初は漆塗りの建物だったらしいが、今では禅宗様の寺のように渋い。
赤山陣屋址 山王神社(赤山日枝神社)

赤山陣屋跡地に残る、唯一の古建築だ。

私はビャクシンが好きなのでビャクシンだといいなと思うが、やっぱ杉かな(好きだとか言いながら見分けられない奴)
赤山陣屋址 山王神社(赤山日枝神社)

北堀。
赤山陣屋址 北堀

赤山陣屋(赤山城)。名前は知ってる、都民なら簡単に行ける距離にあることも知ってる、けど訪問の優先順位は低い……ていうお城好きは多いんじゃないでしょうか。

私もそういう一人だったのですが、
「意外と面白いぜ!」
と、声を大にして言いたい、そんな感想を抱いた訪問でした。

お城は関係ないけど、安行の史跡をいちどじっくり回りたいんだよなー。

広告
広告
広告

ここはシェアと拡散の店だ。どんな用だい?

さっそくフォローしていくかい?

広告
広告

このブログを書いた人間/サイト管理者

桝田道也(ますだみちや)
桝田道也(画像)

もっとくわしく→このサイトと筆者について | 桝席ブログ http://www.masuseki.com/wp/?page_id=3178