イケイケぬまぬま

この記事は、単独で記事を立てるには短すぎる池や沼、湖を紹介するための記事です。ときたま更新します。

この記事内では新しく書かれたものほど、上になります。

調整池や雨水流出抑制施設は別のエントリで扱います。

  >調整池への長征 | 桝席ブログ
  http://www.masuseki.com/wp/?p=8807

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入間郡広沢郷の名残り 広沢の池(埼玉県朝霞市)

訪問日:2015-08-11

この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9286#HirosawaPond

なんの変哲もない普通の池だ。
広沢の池(埼玉県朝霞市)

たまたま通りすがって、説明板があるから撮っただけだ。一枚しか撮っていない。

特に感銘を受けるような広さや美しさがあったわけではない。季節には渡り鳥など野鳥の飛来が見られるらしいが、あいにく、このときは目にしなかった。

広沢の池(埼玉県朝霞市)

いま、こうして記事にするのは、過去に撮った写真の整理の一環としてだ。

ではあるが、広沢の池を通りすがってから二年、少しだけ知識も増えたので、すこしだけ考察を書こう。

そもそも、古来、このあたり——現在の朝霞市——は、広沢郷と呼ばれていた。 ただ、広沢なんていう個性のない地名は日本全国あちこちにあり、同じ武蔵国の幡羅郡(現在の熊谷市、深谷市)のあたりにもあったらしいのでややこしい。本記事内では入間郡広沢郷のこととする。

広沢というからには、広い沢があったのだろう。そりゃそーじゃん。そりゃそりゃそーじゃんそりゃそーじゃん。

それは朝霞市の北側を流れる黒目川と南側を流れる越戸川が旧入間川(現在の新河岸川)に注ぎ込むあたりで、当然に、巨大な湿地帯であったにちがいない。

現在の彩湖の南西側、朝霞市根岸を中心とした氾濫地域が広沢だったのだろう。北は志木市から南は和光市までかかっていた(和光市には広沢と言う地名が残っている)。つまり、広い沢なのである。

広沢という地名は平安期には文献に現れている。幡羅郡広沢郷との混同がなかったか、私は疑わしいと思うのだけど、ともかく鎌倉時代までには、この入間郡広沢郷も「広沢」で通じていたようだ。

問題は、冒頭の写真の広沢の池の場所だ。

朝霞駅の南西 600m くらいの位置にあり、ようするに、広沢湿地から少し離れた丘陵(広沢原)の上にある湧水なのである。 周囲のどこにも、沢らしさはない。ついでに言うと広い池でもない。

~これは言い伝えだけで証拠はなく、おそらくは、もともと広沢と言う地名があったところにある池ということで「広沢の池」という名が付いたのであろうと記録されています。

と、説明板が歯にものが挟まったような書き方をするわけである。

思うに、巨大な湿地帯が広沢と呼ばれ、その上の河岸丘陵が広沢原、あるいは岡と呼ばれるようになった。 岡は朝霞市の町名で、かなりの領域を占めている。

ここで、湿地帯の広沢と農耕地・住宅地としての広沢原の混同が起きる。
「広沢って略すな」
問題だ。

そして、この広沢湿地帯を形成する黒目川・越戸川のうち、越戸川の水源の一方が現在の自衛隊朝霞駐屯地にあるという七ツ釜遊水地、もう一方が、冒頭の広沢の池だと江戸時代には認識される。

「広沢湿地帯の水源」という言い方が短くされて、広沢の池になったか。あるいは、広沢原の池が短くなって、広沢の池になったか。

温暖だった平安時代までは広かった沢も、鎌倉時代以降は気候の寒冷化と技術革新で干拓が進み、広かった湿地帯は江戸時代末までに、あらかた消えてしまったのだろう。

そして、地名だけが残ったと。

つまり、長々と書いたが、私の考察も説明板の説明と大差のないレベルに着地してしまった。

しかし、広沢原台地、すなわち「朝霞市 岡」の周囲には湿地が広がっていたと推測されうるとわかったのは、収穫だった。

なぜなら、朝霞市岡には岡城があるからだ。よしよし、私の土俵に戻ったぞ。

  >岡城址(埼玉県朝霞市)へ行ってきた | 桝席ブログ
  http://www.masuseki.com/wp/?p=600

武蔵国岡城。遺構の残りはまずまずなのだけど、土の城の傑作が多い埼玉県の中では知名度の低い城だ。

私も、前にいったときは、軽く流す程度にしか散策しなかったし、その後、近くを通っても
「なるほど、黒目川を防衛線にした城だったのだな」
と思う程度にしか着目していなかった。

防衛線の黒目川は丘陵の東を流れているが、丘陵の北側と南側に広沢湿地帯が広がっていたとしたらどうだろうか?

丘城でありながら、三方を湿地と川に囲まれた、堅牢そのものの浮き城、水城ではないか。

岡城は、築城者や築城年代がはっきりしていない城だ。

  >武蔵岡城(埼玉県朝霞市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団
  https://kojodan.jp/castle/912/

築城者や築城年代がはっきりしないのは、記録が散逸してしまうほど古い時代から城があったからかもしれない。

思うに、まだ湿原が残っていた時代、
「ここに築城しないなんてありえない!」
なんていう立地だったのではないか。

……というわけで、もういちど、岡城に行く理由が出来た。

ただの池だなー、というだけのスポットでも、写真に撮り、残しておくものだ。 ネタになるかならないか、ではない。

するかしないか、なのだ。

ところで城と言えば、この広沢の池周辺が「広沢堂山」なる陣屋・武士居館の比定地であるらしい。

ただし、文献上に現れるだけで遺構は発見されていないらしい。ふたたびここを通りすがる可能性は高いので、記憶の片隅にはとどめておこう。

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