史跡の軌跡 2

おお、紫石英より輝けり、史跡たちよ! …… エグザンプル・コム(架空の歴史家)

この記事は、単独で記事を立てるほどでもない小さな史跡を紹介するための記事です。ときたま更新します。

パート2です。前エントリはこちら。

  >史跡の軌跡 | 桝席ブログ
  http://www.masuseki.com/wp/?p=28

この記事内では新しく書かれたものほど、上になります。

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凝ったギャートルズ 松渓公園(東京都杉並区)

訪問日:2015-10-06

この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9292#ShokeiPark

ごく、普通の公園だ。杉並区荻窪一丁目。
松渓公園

地方出身者の首都圏住は、中央線を基準にして位置を把握するという偏見を私はもっている。ソースは私。

だから、
「荻窪はなんとなくわかるけど……」
という人のために雑に説明すると、荻窪駅から南に 1km くらいのところにある小さな公園だ。

http://www.openstreetmap.org/?mlat=35.6950&mlon=139.6217#map=15/35.6950/139.6217

ここで、縄文時代早期の土器や縄文時代中期の住居跡が見つかり、発掘調査が行われ、その後、杉並区は遺跡をそっと埋めて普通の公園にした。

また発掘が必要になったら掘り返せばよく、それまでの数千年と同様に地下で保存されるというわけである。

下手に推定竪穴式住居を復元して放火リスクや監視コストを背負うより、うまいやり方である。

とはいえ遺構としては何もないわけであり、ぶっちゃけ、ここが遺跡だったよというだけでは、私もブログ記事にしにくい。

が、ここにはひとつ、私の琴線に触れるすてきなものがあった。

園山俊二先生による縄文人の生活の絵が飾られていたのだ。
松渓公園 園山俊二先生の絵

わしゃ、ギャートルズが好きでのう。

調べたところ、生前に園山先生が杉並区に住んでおられた縁で、このイラストが作られたのだそうだ。

杉並区内に、二種三か所、園山先生のイラストがあるという。もう一種あるのか、いつかは見に行かなくては。

そんで、わしゃギャートルズが好きでのう、と言ってたくせに、私はこのとき、この看板をスナップ的に低解像度でしか撮らなかった。

が、よく見ると、凝りっぷりがすごいのである。

石斧の刃のディティール!磨製石器じゃなくて、ちゃんと打製石器の刃になってる!
松渓公園 園山俊二先生の絵

縄文式土器を、ひも状の粘土を積み重ねて作ってるところ!リアル!
松渓公園 園山俊二先生の絵

どんぐりを石臼で潰して調理してる母親と、骨の髄を吸っている幼児。ちゃんと見ないと気づかんわ、そんなん!
松渓公園 園山俊二先生の絵

骨の色が白じゃないのは、彩色を担当した業者のケアレスミスだろう。

マンモスじゃなくてイノシシなのもリアルだが、少年が持ってるものに注目。
松渓公園 園山俊二先生の絵

ヤマイモである。

つまりこれは、イノシシを狩ろうとして逆襲されているわけじゃなく、ヤマイモ採集中にイノシシに襲われたの図なのだ。

そう、貧弱な石器しか持たない縄文人は、鹿やカモシカは狩ってもクマやイノシシなど危険な動物を狩ったりは、よっぽどでないとしない。

園山俊二先生は、この絵を制作するにあたって、熱心に取材なされたそうな。

  >公園で『はじめ人間ギャートルズ』園山俊二氏の案内板発見! | リビングむさしのWeb
  http://mrs.living.jp/musashino/town_news/reporter/1401072

私の中で、
「地平線を描けばそれで幸せと言っていた漫画家・園山俊二」
のイメージ、大崩壊である。いい意味で。

漫画家は、だいたい、真面目なのである。ギャグマンガ家は特に。真面目を熟知していなければ不真面目は描けないものだ。

 

残念なのは、杉並区のウェブサイトで、この看板の情報が検索しても皆無だった。

宝の持ち腐れ、灯台もと暗し、ブリスターパックから出して遊ばないプレミアフィギュアである。

漢字が難しい? 船圦川跡(千葉県浦安市)

訪問日:2015-10-29

この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9292#hunairigawaato

都市化にともない暗渠化アンド緑道化された、かつての河川。それ以上ではなく、私も写真を一枚撮ったのみ。
船圦川跡(千葉県浦安市)

散歩するにはよさそうな緑道だ。

船圦《ふないり》川。千葉県浦安市にあった、全長約 550m の短い川。

当代島を開墾した人物が開削したという伝承が残るが、事実かどうかは定かではない。

どのへんに疑う余地があるのか、自然河川の可能性がどこにあるのか私にはわからないが、埋め立て工事の際に、人工河川の証拠になるようなものが発掘されなかったということか。

その名の通り、舟が出入りする当代島の江戸時代の玄関口だったから船圦川と呼ばれた。あとは、この地域の貴重な生活水源であったらしい。

ほかに面白い逸話があるわけでもなさそうで、史跡として正直に言って、魅力的なものでもない。実際、私もただ、通りすがっただけだ。

ただ、史跡とは別に興味深い点がひとつある。船圦の「圦」の字だ。

私は最初、船入川だと思い込んで写真のファイル名もそのようにつけていたから、さて浦安市のサイトに説明でもないかと検索した際、まったくヒットせず焦ってしまった。

そこで、「いり」が「圦」なのに気づいた次第。

「圦」。あらためて見ると、知らない漢字だった。私がそんなに漢字が得意な方ではないというのはさておき、読めない字。調べてみよう。

  >圦(イリ)とは – コトバンク
  https://kotobank.jp/word/%E5%9C%A6-436354

  >圦 – ウィクショナリー日本語版
  https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9C%A6

ようするに、「水の出入りする場所。樋口」を意味する漢字。日本で作られた国字であって、音読みはない。

これはあれですかね。
「てやんでえ!樋口とか樋菅とか呑吐樋とか水門とかイチイチ書いてた日にゃ、温気の季節にゃ紙と墨が腐っちまわぁっ!こちとら江戸っ子でいっ!俺ァ、新しくて画数の少ない漢字を作るぜ!これが仕事の効率化ってもんよ!」
と考えた輩がおったんでしょうな。

考え方としては悪くなかったけど、作られた漢字は、あまりに抽象度が高すぎた。 土編に「入」では、説明されなきゃ、それが水門や樋口を意味するとは伝わらない。 よって、あーんまり普及しなかったのだろう。

もし普及してたら、利水施設関係をつぶやくとき、今より字数を少なくできただろうにね(そうだろうか?)

引又河岸跡と引又観音堂(埼玉県志木市)

訪問日:2015-10-23

この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9292#hikimata

埼玉県と東京都を流れる新河岸川(板橋区の高島平あたりから下流は隅田川)は、江戸時代の江戸を支える、物流の大動脈だった。

水運のために九十九曲がりと呼ばれるほど、川を蛇行させていた。そうすることで、必要な水量を確保し、また、流速を押さえていたのだ。

そして、一里(2.7km)おきどころか 1km おきくらいじゃねーか?ってくらいみっしりと、そこかしこに河岸と渡船場が連なっていた。

現在の志木市市役所にほど近い、新河岸川と柳瀬川の合流点付近には、引又河岸があり、ここは新河岸川の中でも1、2を争うほど栄えた河岸、物流の要衝だったいう。

しかし、近代化の流れは残酷だった。洪水対策のため九十九曲はまっすぐに直され、流速は早くなり水量は減り舟の通行が困難になった。昭和6年に通船停止令が出され、新河岸川は物流の大動脈としての役目を終えたのだった。

いま、かつての引又河岸の面影を残すものは、ほとんど残っていない。 大正時代、水量が減り始めたことの対策として、すぐそばの宗岡に築かれた宗岡閘門《こうもん》は、埼玉のパナマ運河と呼ばれたが、先述の通り昭和6年の通船停止令によって無用の長物と化した。

それでも、残しておいてくれりゃあよかったのに、1980 年、水流の妨げになっている(=洪水リスクの一因)という理由で、わざわざ撤去されたのである。くそう昭和め!おまえが!おまえが!

というわけで、かつての引又河岸の跡には記念碑が立っているだけとなっている。
引又河岸の碑

宗岡閘門があった柳瀬川との合流点には商家の古建築である村山快哉堂が移築され、その近くには、かつての宗岡閘門の古写真を掲示した説明板があった。

後悔は先に立たないものだ。人間の想像力とは貧しいものだ。かつて、無用の長物として明治維新期に日本の城が破壊されまくったが、運よく破壊されずに残った城は、昭和には有力なコンテンツとなった。

それを見ていながら、埼玉のパナマ運河と呼ばれたほどの閘門が将来、価値を生むとは思わなかったのだから(そういう声がまったくなかったとは思わないが、つまりは、行政を止められない程度に声は小さかったのだ)。

ちなみに、引又という地名には諸説あって、志木市のサイトでは
「船を曳《ひ》きながら、柳瀬川をまたぐ場所だからという説もあるが、蟇俣と書かれた例もあり、合流点の地形がヒキガエルの伏せた姿に似ているからだろう」
としている。

  >志木市の歴史 – 志木市ホームページ
  https://www.city.shiki.lg.jp/sp/index.cfm/53,2415,263,html

たしかに川をまたぐから、てのもこじつけくさいが、ヒキガエルの伏せた姿ってのも、どっこいどっこいではないか。

私はもっと単純に考えたい。合流点ってことは、見方を変えたら分岐点だ。舟を引く俣(川の分岐点の意味)だから引俣、転じて引又だと思う。あるいは、川の分岐をマタヒキ(モモヒキ/サルマタ/ズボン)に見立て、分岐してるんじゃなくて合流してるから、ひっくりかえしてヒキマタとなったとも考えられる。

正解が定まってないことは、好き勝手に無責任に妄想を述べられるからいいね。

さて。

引又河岸の近くには、水の事故で死んだ人を供養するため、観音様が祀られていた。 水辺の職場だけに、そういうことも多かったのだろう。いまで言えば福利厚生のしっかりした職場みたいなものだ。

この観音様も、河川改修工事で移動を余儀なくされた。

お堂はもともと昭和42年に建てられ、平成8年の河川改修の際に、ここへ移されたのだという。つまり、古い建物ではない。
引又観音堂

そして、昭和42年に観音様をお堂に入れたさい、ついでに、付近の田畑にあった馬頭観音二体も一緒におさめたのだという。
引又観音堂

観音様たちだって、ひとりでいるよりいっしょにいたほうがさみしくなくていいかもしれん。

が、農作業で死んだ馬や牛を供養するための観音と水難事故で死んだ人間を供養する観音様を、一つ屋根の下に集わせて、参拝者もまとめてお祈りするというのも、なかなか乱暴な話だ。

昭和42年。牛馬を供養するということもずいぶんと減ったころだ、無理もない。

ところで、私はいまいち、馬頭観音というものが、どういう観音様か、知らなかった。

字面から、やっぱり↓こういうのを連想するじゃないですか。
ハヤグリーヴァ(馬頭観音)

実際、↑は馬頭観音のインドにおけるオリジナルであって、ハヤグリーヴァだ。

ところが、実際の馬頭観音はこんなんだった。
引又観音堂

これはケモじゃなくてケモコス定期、である。

ウィキペディアによると、日本における馬頭観音はほとんどケモコスで描かれたり彫られたりしてて、インド式のガチケモな馬頭観音は(日本では)ほとんど例がないのだそうな。

  >馬頭観音 – Wikipedia
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%A0%AD%E8%A6%B3%E9%9F%B3

やはり、日本でガチケモがメジャーな嗜好になるのは難しいのか……と、わずかに残念な私だった。

やるじゃん戦前デザイン 京浜急行電鉄デハ268号(東京都新宿区)

訪問日:2015-10-06

この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9292#deha268

これまた通りすがりだ。私は(今のところ)鉄属性をさほど持ってない。毎年のように18きっぷで旅行してるのは、経済的な理由であって、鉄道好きだからというわけではないのだ。
デハ268号

たいして興味はないが、それはそれとしてもったいないので、公園などに保存されている古い車両を見かけたときは素通りせず、いちおう念のため、撮っている。

そんなんだから、説明板も撮るだけ撮っただけで、ちゃんと読んでいなかった。
デハ268号

今回、ブログにポストするにあたって、あらためて読んで
「え!あ?そうなの?これ、戦前から活躍した車両なの?えー、やるじゃん戦前!しょうわのくせになまいきだー」
と思った。

この電車が、東京の若者を次から次へと戦地に送り出したのだと思うと、なかなか考えるものがありますな。

この電車が、東京の子供たちを疎開させるために送り出したのだと思っても、考えるものがありますな(フォロー)

ちゃんと説明板を読まずに見た目の印象だけで、
「まあ、戦後の復興期に生まれて活躍した車両なんやろね」
くらいに思ってたので、戦前デザインのなかなかの洗練ぶりに驚いたという話。

参考のためにウィキペディアも読んだけど、ウィキペディア(日本)の鉄道系項目にありがちな説明が細かすぎて逆によくわからないの顕著なやつだった。

  >湘南電気鉄道デ1形電車 – Wikipedia
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%98%E5%8D%97%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93%E3%83%871%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A

ところでこの、新宿区西落合のデハ268号、公園などではなく、ある会社の前に展示してある(それが面白かったので、素通りできずに撮ったというのもある)。

PRECISION RAIL MODEL。直訳すれば“精巧な鉄道模型”。
ホビーセンターカトー

……が、PRECISIOBN の意味がわからない程度の英語力の私はこのとき、
「よくわからんけど、この車両の設計とかに関わった会社かな?」
とテキトーな憶測(妄想とも言う)で自分を納得させた。

ホビーセンターカトー。真実を知ったのは、この記事を書く直前、わかりづらいウィキペディアを眺めたときだった。

蟇股のワンポイントおしゃれ 中道寺鐘楼門(東京都杉並区)

訪問日:2015-10-06

この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9292#ChudojiShoromon

これもまあ、通りすがりだ。この門を見に行ったわけでもなければ、2017 のいまも中道寺がどういう寺なのか知らない。
中道寺鐘楼門

  >16 中道寺 【寺院】(荻窪2丁目25番1号)|杉並区公式ホームページ
  http://www.city.suginami.tokyo.jp/kyouiku/bunkazai/hyouji/1007894.html

ざっくりまとめると、日蓮宗のお寺で、鐘楼門は 1773 に建てられたよ!けっこう古いよ!区内では珍しいよ!という話だ。

杉並区は上記のように説明板の説明文がウェブに転載されている。神がかり的にすばらしい。 が、中堂寺鐘楼門については、説明板ではなく説明柱であり、その文章は区のサイトにアップされているものの PDF な上に文章を画像化していた。悪魔憑き的にげすげすしい。

鐘楼門。土地不足は江戸時代から始まっていたのだろうか。 鐘楼と山門を一体化させた、ラジオ付き懐中電灯みたいな門だ。

門を通るとき鐘を突かれたら、さぞやうるさかっただろう。

禅宗様ってことは禅の様式なんだろ?虚飾を排した色即是空空即是色なんだろ?という誤った思い込みを抱いていた。
中道寺鐘楼門

実際には禅宗と同時期に中国からもたらされた中国の禅寺を手本にした建築様式のことだ。それまでの、日本で独自の進化をした和様(元々はこちらも中国の様式だったのだが)に対し、この新しい元や宗の建築様式は主に唐様または禅宗様と呼ばれた。

ぶっちゃけると、最新中国式!くらいの意味であり、それ以上でも以下でもない。NYではいまこれが流行り!みたいなもんだ。

が、現代になって、唐様だと英訳するとチャイニーズスタイルになっちゃう!主語がでかすぎる!ということで、主として禅宗様という語を使うようになったというわけだ。

結果として、中国風を取り入れた寺が、私のような字面だけを追うアホに、
「禅宗用か。ってことは禅寺なんやな?それにしてはデーハーすぎませんかー?」
などと誤解される原因となった。

え?個人の誤解を一般化するな?主語がでかい?ごもっともごもっとも。

禅宗様は必ずしも装飾性を抑えた建築ではない。オーケー理解した。そして、それはそれとして、 このワンポイントのカラフルな蟇股は、江戸後期の成熟した美意識を今に伝えている。
中道寺鐘楼門

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ここはシェアと拡散の店だ。どんな用だい?

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桝田道也(ますだみちや)
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