こんな城あんな城

この記事は、単独で記事を立てるには短すぎる城址訪問記のためのエントリです。ときたま更新します。

この記事内では新しく書かれたものほど、上になります。

将来的に日記から転載した部分が含まれる予定ですので、サイト内に重複する記事が出てくるかもしれません。

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遺構ゼロではない。ならば良し! 武蔵山口城(東京都東村山市)

この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#musashi_yamaguchi_castle

訪問日:2016-11-03

正福寺千体地蔵堂の内部公開を見に行った日に、撮影許可時間まで2時間くらいあったので、おとなりの所沢市の武蔵山口城址を見てきました。

  >山口城 (武蔵国) – Wikipedia
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%9F%8E_(%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD)

山口氏の居城だから山口城。山口氏の名前の由来は、狭山の口だとかなんとか。遺構の残りは悪い。とはいえ小田原征伐後は廃城になったので、わずかでも遺構が残ってるだけめっけもん、と言うこともできる。

南の防衛線。柳瀬川。
柳瀬川

南側の土塁。石垣のように見えるが単なるコンクリ法面保護。鉄道のそばなのでしかたがない。
武蔵山口城(東京都東村山市)

城址を示す碑。なぜ正面から撮らないのか?それは……
武蔵山口城(東京都東村山市)

これだからだ。小賢しい。
武蔵山口城(東京都東村山市)

正面の大型商店のある一角がかつての本丸。その西側と南側に、かろうじて土塁が残り、碑がある。
武蔵山口城(東京都東村山市)

なにも知らずにこの看板を見たら困惑する。
武蔵山口城(東京都東村山市)

遺構の残りが悪いことを強調されがちな城址だが、私の感想は
「おもったより残ってる。ゼロではない。じゃあ、いいじゃん、わりと」
だった。

遺構は何もなく、城址という伝承が残ってるだけの平塚城を先月に見て、その次に訪問した城址だったからかな。

説明文が消えかけ。せめて 10cm でも庇があったらとも思うが、退色は雨は関係なくて光のせいだろうか?という気も。
武蔵山口城(東京都東村山市)

しかし地図や図はまだ読み取れたので、かなり助かった。

わずかに残る東側の土塁。発掘調査では幅10m高さ3mだったという。まあまあ、なかなかのクラスだ。
武蔵山口城(東京都東村山市)

南側土塁には小さな社があったが完全に柵で囲まれてて近寄れなかった。由来も不明。こわい。
武蔵山口城(東京都東村山市)

ここにかつての空掘があった。と知っていれば、ああ……と納得できる程度には地形に面影がある。
武蔵山口城(東京都東村山市)

ウィキペディアには空掘の一部が残るとあるが、この駐車場出入り口の場所以外に、空掘跡と視認できるものは見つけられなかった。 急いでいたせいもあるが、わずかに心残り。

なお、山口氏はのちに根古屋城を築いて城機能をそちらへ移転させた。その根古屋城跡はいま、狭山湖の北西の方、山口貯水池にある。東京都水道局の敷地内のため、近づくことができない。

遠望だけ見てもしかたがないし時間もなかったので、根古屋城へは行かなかった。ほんと、文化の日くらいなんとかなりませんかねえ>東京都水道局。

食い違い参道www 平塚城(東京都北区)

この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#hiratsuka_castle

訪問日:2016-09-17

  >平塚城(東京都北区)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団
  https://kojodan.jp/castle/1068/

平安時代に秩父平氏の豊島近義が城館を建てたことに始まるという。後三年の役のとき源義家が駐留した。源義家は手厚いもてないしに感謝して鎧と観音像を贈った。豊島近義はその鎧を城を守る本尊として塚に埋めた。その塚が低く、平らだったから平塚城と呼ばれるようになったという。

低くて平らとなると、曲輪の先祖だったのかもなあ……という気がするけど、残念ながら城の遺構らしきものは残っていない。

いたって普通の神社
平塚神社(平塚城伝承地) 東京都北区

あの扇のマークに弓矢かブーメランかパチンコを当てたいと思う程度にゼルダ脳。
平塚神社(平塚城伝承地) 東京都北区

南側は急峻な斜面になっていて、掘切だったのかもと思うけど、まあ、なんともいえない。
平塚神社(平塚城伝承地) 東京都北区

そもそも、その問題の塚も非公開なのだから。

おそらく発掘調査も許可してないんじゃないか?というか、神社の周囲の宅地開発で何か発掘されたということも現地説明板にはないし、本当に平塚城=平塚神社なのかというところから疑ってかかるべきなのかもしれない。

太田道灌の時代まで平塚城が存在していたのなら、確実に土塁を築いていたはず。神社の境界として土塁はあって困るものじゃないから、完全に失われてるのも変なんですよね。

天然で食い違いの入り口になってしまってる参道。
平塚神社(平塚城伝承地) 東京都北区

あきらかに駐車スペースの都合であって、遺構じゃないのだけど、ちょっとニヤニヤしてしまった。

背水の砦…いや、ちがった。稲付城(東京都北区)

この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#inetsuke_castle

訪問日:2016-09-17

タイラバヤシかヒラリンか、イチハチジュウノモークモク、ヒトツトヤッツデトッキッキ

突然、なにを言い出すのかこのブログ主は。だが、あなたは悩まないだろうか?稲付城の読み方について。

いなつき?いねつき?いなつけ?いねつけ?イナフ?Enough is enough(もうたくさん)?オーケー、わしもそう思う。

そして、ややこしいことに、ネット上の情報は「いねつけ」城と「いなつけ」城に二分されるのだ。

現地説明板での読みは「いねつけ」である。
inatsuki_castle_09.jpg

これで決着したようなものであるが、「現地説明板での」とまわりくどいいいかたをしたのは、「いなつけ」派を擁護できなくもないからだ。 というのも、この近辺にある稲付中学校は「いなつけちゅうがっこう」だし、稲付公園も「いなつけこうえん」だからだ。

ことの経緯はこうだ。

稲付の読みは本来、地元では「いねつけ」と呼ばれていたが、1932年(昭和7年)の官報で読みが「いなつけ」と記載されて「いなつけ」に変更された
北区立稲付中学校 – Wikipedia » 校名について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8C%BA%E7%AB%8B%E7%A8%B2%E4%BB%98%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1#.E6.A0.A1.E5.90.8D.E3.81.AB.E3.81.A4.E3.81.84.E3.81.A6

単に誰かが間違っただけなのに
「ひゃああ、お上にさからっちゃなんねえ、これからは「いなつけ」と呼ぶべえ」
「んだ、んだ」
であった疑惑はぬぐいきれないけれども、ともかく一定期間、公文書上で稲付は「いなつけ」と呼ばれた。

一度、公的なものになったソースは、そののち否定されても修正されても、その事実を知らない人間から何度も何度も孫引きされて、ゾンビのようにしぶとく生きのこりつづける。そのことを責めてもどうしようもない。なぜならソースは公文書なのだから。

と、いうわけで、「いなつけ」も旧町名となり、いまや公的な行政区域としての「いなつけ」はないわけだから、稲付城も本来の読みの「いねつけじょう」と呼ぶべきなのだけど、まあ、かたいこと言わんでもええやんな、稲付中学校卒業生の中には「いなつけ」の方がしっくりくるって人もいるだろうし…と思わないでもない。

さて、余計な話が長くなったが、この稲付城(現・静勝寺)は、寺に伝わるところによれば河越城を守るために太田道灌が築いた繋ぎの城だと。よくある、河岸段丘の舌状台地の先に築かれた砦だ。

遺構は皆無だが、立地はたしかに、その通りだ。

なるほど、これは攻めにくい……って、待てよ?
inatsuki_castle_02.jpg

稲付城は東京都北区の史跡だ。つまり荒川の右岸に存在し、対岸は埼玉だ。

南関東勢に対して、荒川を防衛線にするのなら、砦は左岸になければならないのでは……?もしや背水の陣を兵に強いるブラック城址?と、しばらく誤解してしまった。

つまり、河越城=埼玉=荒川の北、という思い込みが働いてしまったのである。

言うまでもなく、川越は江戸の北西であり、荒川の右岸に存在する。したがって、稲付城は東から来る千葉氏に対して荒川を防衛線にした、ごく普通の立地の繋ぎの城だった。もちろん、当時の荒川の流路はいまとちがうだろうし、どんな流路だったか私には、すぐにはわからないけれども、大雑把には合ってるだろう。

首都圏の地理に疎い田舎者らしい勘違いだった。

あ、ミケだ。

発掘調査で幅 12m もの空堀があったのが判明したらしいが、その名残が寺の周囲の道なのか、いまいちはっきりしない。

静勝寺に伝存する江戸時代の絵図には、道となった当時の堀跡の様子が描かれているらしいが、残念ながら非公開だ。 発掘調査の記録など、北区の公文書をたんねんにしらべればわかるのだろうが、少なくともネット上に、発掘調査結果の図面や『静勝寺除地検知絵図』の画像はないようである。

遺構の残りの悪い城址であり、そこまで情熱をかけて調べてる人がいないということだろうか。

都市開発の影響はあるが、それでも、砦に適した断崖絶壁の地形だったのだろうということは、うっすらわかる。

出丸をもっと丁寧に見ればよかった。増尾城(千葉県柏市)

この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#masuo_castle

訪問日:2016-09-01

松ヶ崎城に行ったあと、訪問。
下総国 増尾城(千葉県柏市) 

土塁のようなものが、あるといえばある。
下総国 増尾城(千葉県柏市) 副郭西側

切岸っぽい斜面も見える。
下総国 増尾城(千葉県柏市) 副郭西側

いちいち、説明板があったりはしなかった。
「ま、それもいいわいな。多すぎると、それはそれでうざったいもんやし。土の城の見学者として、力量を試される城なのじゃわい」
などと、ひとりごちた。

増尾城。私なぞ、つい、「ましお」と読みそうになるが「ますお」が正しい。それほど史料の残っている城ではない。

増尾城址総合公園 – OpenStreetMap

  >増尾城(千葉県柏市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団
  https://kojodan.jp/castle/784/

これは明らかに人工的な空掘だが……櫓台なのか、なんなのか、さすがに説明が欲しい。
下総国 増尾城(千葉県柏市) 出丸か?

などと、そこそこ楽しみつつ、そこそこ惜しいと思いつつ歩いてたら、とんでもない案内板に出くわした。

「な、なんですと~~~~~っ!?」
下総国 増尾城(千葉県柏市)

ここまで城址じゃなかったとおっしゃりますですかい?あたしゃ、自然地形を眺めて
「明らかに人工的な空掘だが……」
とか、ほざいていたと、おっしゃりますですかい?

そりゃねーよセニョリータ。あんまりだぜボニータ。

なにが、
「土の城の見学者として、力量を試される城なのじゃ」
だ……うっわあ恥ずかしいいいいいっ!

と、少なからず動揺しつつも、お城=天守という誤解がまかり通っているように、城址=本丸、という意味での案内板という可能性も考慮して、平静を装いつつ「←城址」の方へ向かった。

増尾城副郭。増尾城は主郭と副郭からなる単純な連郭式の縄張りの城。
下総国 増尾城(千葉県柏市) 本丸

さすがに、「←城址」の案内板があっただけあって、このあたりの遺構の残存度は高い。土塁・堀・腰曲輪・虎口がよく残っている。

あいかわらず、それぞれへの説明板はないけれども、副郭に大きな説明板があり、城のあらまし、構造の説明、遺構について述べられており、地形図も添えられているので、必要十分ではあった。

主郭からみた虎口。虎口の向こうに見えているのが副郭。主郭の方が狭い。
下総国 増尾城(千葉県柏市) 本丸虎口

おそらく、城郭研究者が便宜上、南西(大手)から見て手前を副、奥を主としただけで、当時はどっちが主というわけでもなかったのではないかと思う。

そして、例の「←城址」の案内板は、主郭+副郭の内郭部を城址としていただけで、私が心の中でええかっこしいをしたあたりは外郭部や、内郭の斜面や、出丸なんかだったので、人口地形が含まれていたことには間違いなかった。はーやれやれ、ひと安心。

説明板の地図を見て思ったことは、説明では特筆されていないけど、北北西~東にかけて、舌状台地をほぼ半周して取り囲む、小さな出丸がたくさん設けられているところではないかと思った。

この矢印の部分。ここまで細かい出丸をビットのようにたくさん配置している城を、私は他の城で見た記憶はない。
下総国 増尾城(千葉県柏市) 

再掲。ほら言ったじゃん!人工的な空掘だって!ああよかった、間違ってなかった。
下総国 増尾城(千葉県柏市) 出丸か?

それはそうと、この増尾城。南側の天然の濠であった大津川の分流の水質の問題なのかなんなのか、この夏おとずれた城址の中でも、とりわけヤブ蚊が多かった。しかも、たっぷり虫よけスプレーをふりかけた腕や首や顔などに、果敢にアタックを試みるタフな剛の者たち。さすがに吸血まではできなかったらしく、かゆくなることはなかったけれども、お城を眺めているあいだじゅう、耳の周りをブンブンとびまわる音に苛《さいな》まれた。

めずらしくセルフィー
下総国 増尾城(千葉県柏市) セルフィー

下から見たらイマイチ、登ってみてまずまず。松ヶ崎城(千葉県柏市)

この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#matsugazaki_castle

訪問日:2016-09-01

  >松ヶ崎城(千葉県柏市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団
  https://kojodan.jp/castle/916/

到着してみたら、芝生にあからさまな植樹、コンクリブロック法面のコンボだったので、がっかり整備の城址公園だと思った。
 下総国 松ヶ崎城(千葉県柏市)

空は広くて気持ちいいし、腰曲輪のような形状も確認できる。が、なんちゅーか、ゴルフ場っぽいというか。
 下総国 松ヶ崎城(千葉県柏市)

が、上まで登ってみたら、良い感じに遺構がそのままにポンと残されていた。
 下総国 松ヶ崎城(千葉県柏市)

破壊するでもなく、復元するでもなく、
「雑木林化してたから伐採して、簡単な説明版だけ設置したでよ」
みたいな、ゆる~い整備。悪くない。

城址として、また遺構として特筆するほどのものはさほどない。堀の深さは2m。幅7m。底から土塁頂上まで5m。中世城としては標準的なサイズだろう。
 下総国 松ヶ崎城(千葉県柏市)

その堀もだいぶ埋まってる。公園化による破壊は少ないけれど、経年劣化は激しい。

左右の土塁がまっすぐつながらないから、喰い違い虎口とわかるが、いまや真っ直ぐ通ることができるw
 下総国 松ヶ崎城(千葉県柏市)

ここに城ができる前から、古代人が生活していたらしい。古墳がふたつあるのが、おもしろポイントか。
 下総国 松ヶ崎城(千葉県柏市)

古墳にだけシダが生い茂っている理由が、植えたからなのか、長年の植生変化の結果なのか、私にはわからない。

ある種のシダは土中の金属成分を好み、鉱床の目印になるという。だが、このシダがその種なのかどうかは私にはわからないし、鉱床ではなく埋葬品の金属成分が溶け出しただけでもシダが生い茂るものなのか、それも知らない。

松ヶ崎城の魅力は、この鉄塔を眺めるのに良い場所であること、と言いたい(異論は認める)
 下総国 松ヶ崎城(千葉県柏市)

松はどうだったのかというと、看板に偽りあるとまでは言わないが、まあ、ほどほどであった。
 下総国 松ヶ崎城(千葉県柏市)

もちろん、城が活躍していた当時は豊富な松材の産地として有名な場所だったらしい。

 

絵に描いたような、いかにもな沼が! 岡見城(茨城県牛久市)

この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#okami_castle

訪問日:2016-08-31

案内板?そんなものは無い!

というわけで、城のある丘陵の上から向かったのに、行き過ぎて丘陵の下、南斜面の麓まで降りてしまいましたとさ。
岡見城(茨城県牛久市)

山城を攻めるのに自転車は向かない。そのことは太田金山城まで自転車で行ったとき、いやというほど思い知ったのに(岡見城は山城ではなく丘城だけど)。

なんとか、事前にブクマした場所まで来た。だが、案内板などはない。でもここしかない!あるとしたら、この農道の先しかない!
岡見城(茨城県牛久市)

あったー。岡見城の碑。
岡見城(茨城県牛久市)

場所はここ。

OpenStreetMap

Google ストリートビュー

岡見城(茨城県牛久市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団
https://kojodan.jp/castle/887/
の、すでに攻城した人のコメントにあるように、駐車場はない。石碑を見るだけなら1~2分ですむから一時停車したってよさそうだけど、すれちがえる道幅とは言い難いので、ちゃんと城址を見て回るなら、どこか駐車できる場所から歩くべきでしょうね。

牛久駅からは約4km。歩けない距離じゃないけど、そこまで苦労する価値のある城址ではない。あなたが岡見氏の子孫か熱狂的なファンなら別だが。

岡見城。鎌倉時代の御家人という由緒正しき家柄の小田氏 – Wikipediaの分家で、現在の牛久市でモウモウ、いやブイブイいってた、まあ地侍である岡見氏の居城だ。

城址を示す碑のわきに岡見氏の供養塔がたっており、案内板もないところを見ると、いまだここは子孫の土地でひっそりと守られているのかもしれない。

城址として整備されてるわけじゃないので、だいぶ経年で埋まってしまっていたが、目視ではっきりと空掘と土塁が確認できた。
岡見城(茨城県牛久市)

土の城を見慣れてないと、これのどこが「はっきり」なのか納得できないだろうと思う。数年前の私がそうだったから。しかし、ある程度、土の城を見て回った経験に照らし合わせると、これはわりかし「はっきり」してる部類の方なのである。もっと微妙なのをたくさん見てきた結果だ。なにごとも経験である。

かつての搦手道か、あとからできた農作業用の道かはわからない。
岡見城(茨城県牛久市)

腰曲輪らしきものがあった。さらに降りると……
岡見城(茨城県牛久市)

絵に描いたような、いかにもな沼というか池のほとりに出た。釣りマッドボーイ三平なら180℃開脚ジャンプで「ウッヒョー」とスマイルフラッシュをかましてるところだ。
岡見城(茨城県牛久市) 山道池

池のほとりの石柱によれば、池の名前は『山道池』。ただし、カミツキガメがいるそうだ。

美しい自然の風景を胸に刻んで、もと来た道を戻る。

広い平削地。このあたりが本丸だったのだろうか。現在は竹林。
岡見城(茨城県牛久市)

この、竹林というのが、案内板の出ていない理由だろうか。すくなくとも、タケノコのとれる季節にはこの城を訪問するべきではなさそうだ。あらぬ疑いを受けたくなければ。李下に冠を正さず。

なお、案内板はなかったが、近くに
「近くに学校・住宅・農耕地あり。発砲危険!」
の看板はあった。

「発砲禁止」ではなく「発砲危険」であることに留意して、読者諸君におかれては攻城していただきたい。

本丸の遺構はなし。 小金城(千葉県松戸市)

この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#okami_castle

訪問日:2016-08-30

台風通過の余波で、あいにく天気が悪かったです。

  小金城 – Wikipedia
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%91%E5%9F%8E

首都圏近郊の宿命か、遺構の残存度は低いです。

住宅街と化した本丸。土塁なども、軽く見回した限りじゃ見つけられませんでした。
小金城(松戸市) かつての本丸

雰囲気だけは荒城を忍ばせるが、もちろん関係ない。
小金城(松戸市) かつての本丸

この団地の一角に記念碑があったらしいけど、見落とした。撮り逃した。
小金城(松戸市) かつての本丸

  小金城 埋もれた古城
  http://umoretakojo.jp/Shiro/Kantou/Chiba/Kogane/

つまりは、ちゃんと下調べせずに行った私が悪い。

まあ、こういう状態であることは、テキトーな下調べでもわかっていたことだったので、高台を降りて、確実に遺構が残っている方へ。

大谷口馬屋敷緑地。奥に土塁らしきものが見える。ちゃんと見れば遺構があったかもしれないが、時間の都合でスルーした。
大谷口馬屋敷緑地(小金城)(松戸市)

確実に遺構が残っている場所。大谷口歴史公園。
大谷口歴史公園(小金城)(松戸市) 入り口

広大な群郭を誇った小金城の、金杉口周辺に残っていた曲輪を城址公園化したもの。

金杉口(虎口)。屈曲はしているが、食い違い虎口ではないようだ。
大谷口歴史公園(小金城)(松戸市) 金杉口(虎口)

障子掘。
大谷口歴史公園(小金城)(松戸市) 障子掘

畝掘。
大谷口歴史公園(小金城)(松戸市) 畝掘

発掘調査をもとに復元したらしいが、正直、再埋没しかかってるような……。

小金城(千葉県松戸市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団 ……に、畝掘は人為的に埋め戻されたとの記述が。マジかー。いろいろ事情はあるのかもしらんが、マジかー。

景色は少し良い。晴れてたらもう少し感動したかもしれない。
大谷口歴史公園(小金城)(松戸市)

というわけで、後北条の城の研究の上で、貴重な城であるはずなのだけど、意外に感動できない城址でした。天気のせいもあったかもしれない。
「悪くない。土塁も堀も虎口も残ってる。決して悪くない城址だぞー……」
と、自分に言い聞かせるんだけど、いまいち盛り上がらないというか。

残存遺構がいまいちな城の場合、残存遺構の解説より、城主か関係者が誰で、どういう人で、なにをしたのかの説明板を充実させた方が楽しめるのかもしれないと思った。

蕨城址公園(埼玉県蕨市)

この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7757#warabi_castle

訪問日:2016-08-06

赤山陣屋を見に行った日に、行きがけの駄賃とばかりに蕨城址も見ました。

行きがけの駄賃、というのも、遺構の残存度が低いのはわかっていたから。

で、実際に見た感想も、
「特筆すべき点がほとんど見当たらない」
でした。見出しがシンプルなのも、そういうことです。

  蕨城 – Wikipedia
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%A8%E5%9F%8E

東側の公園入り口。
蕨城址 東側入り口

食い違い虎口に見えるけど、当時からそうなのか宅地化・公園化でたまたまそうなったのか判別できず。

本丸。戦国期に廃城になったあと、江戸時代は将軍家の鷹狩の休憩所となったらしい。が、その痕跡は残ってない。
蕨城址 かつての本丸

かろうじて、土塁が確認できる。
蕨城址 土塁

公園周辺にも、かつての濠のなごりらしき水路が散見された。

公園内にも濠跡のような池があり。
蕨城址 池

河越城や岩槻城、難波田城と同じく、荒川・利根川流域に多い湿地の城だったのだなあ、とわかる。

当時の荒川の流れは今とはちがうだろうけれども、とはいえ荒川を防衛線にした城だったのであろう。

実は成人式(蕨市では成年式と呼ばれる)の発祥の地。
seinenshiki.jpg

↓ツイッターより転載

鳥のフンでもかかったのか、蕨市の成年式発祥の地の像がヤバイ感じに。もちろん一番ヤバイのは大喜びで撮ってる私自身であるが。

https://twitter.com/mitimasu/status/762104342207803392

城址南の市民会館。道の変な屈曲が濠埋め立てを思わせるけど、たまたまかもしれない。その場ではなんとも判断をくだしかねた。
蕨城址となりの市民会館

岩槻城も城の遺構は少なかったけれど、さすがに城下町だけあって、武家屋敷などはちらほら市街地に残ってた。 だが、蕨市はそれも少ない。古建築として蕨市歴史民俗博物館分館があるけれど、それとて明治~戦前の建物だ。

要害通り。濠の名残だろうか。地名からかつて城域だったことがうかがえる。
蕨城址 要害通り

名前の物騒さとかわいいウサちゃんのミスマッチ。
蕨城址 要害通り

手押しポンプがふたつも。かっこいい。
蕨城址 要害通りのポンプ

お城好きなら住みたくなるマンション名。
蕨城址 要害通りのマンション

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ここはシェアと拡散の店だ。どんな用だい?

さっそくフォローしていくかい?

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